戦国時代を終焉させた「関ヶ原の戦い」って?徳川家康がその後日本の支配者に
「天下分け目の合戦」として知られる関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突し、結果は家康の勝利に終わりました。これにて戦国時代は終焉を迎え、家康が日本の支配者として全国を支配することになるわけですが、関ヶ原の戦いとは一体どんな内容だったのでしょうか。この記事で詳細をまとめています。
東軍の部隊を 「杭瀬川」 という場所で誘い出し、これを包囲殲滅する
島左近 はその知略から 「石田三成に過ぎたる者」 と言われていた
島左近の提案
豊臣(石田三成) と 徳川 の戦いが避けられなくなると
徳川家康 を討つべく、急襲や夜襲など様々な計画を石田三成に提案した
しかし、石田三成 はそれをことごとく却下してしまう
関ヶ原の戦い前日 2
豊臣秀頼 を擁護する石田三成と淀君
トラブルを避ける理由もあり自ら大阪城を退去したねね
大阪城を出た ねね を 徳川家康 が保護していた
「豊臣秀吉の正妻を保護している」 という大義名分も得る事になった
ねね 自身も関ヶ原の戦いの前には
各地の大名や武将に東軍に付くよう要請する手紙を出している
そして決戦
「石田三成(豊臣)軍=西軍」
「徳川家康軍=東軍」
関ヶ原の戦いが開戦
はじめは西軍が優勢だったものの
次第に形勢が悪くなってくると、西軍の兵士が次々に東軍に寝返りだす
戦いの前に、徳川家康が西軍の兵士に寝返るように
根回ししていたともいわれます
東軍の勝利
約6時間ほどで決着となりました
目次 - Contents
- 関ヶ原の戦い
- 豊臣秀吉 の死
- 五奉行と五大老の争い
- 関ヶ原の過程でもっとも主要な人物となったのが
- しかし、石田三成は嫌われ者だった
- 「官僚(政治家)」 だから
- 「関ヶ原の戦い」 の主要原因
- 「家康派」 と 「三成派」 に
- 前田利家の功績
- 前田利家 死去
- 石田三成 暗殺未遂事件
- 徳川家康 の屋敷に
- 石田三成 は謹慎処分に
- 大阪城
- 徳川家康 暗殺計画
- まつ(芳春院)
- 「天下はこのまま徳川家康のものになるのではないか(なっているのではないか)」
- 1600年正月
- 直江状
- 大谷吉継
- 「徳川討伐」 の挙兵を宣言
- 「関ヶ原の戦い」 の前日
- 島左近の提案
- 関ヶ原の戦い前日 2
- そして決戦
- 東軍の勝利
- 敗戦の将 石田三成
- 「干し柿はたんの毒だから食わぬ」
- 宮本武蔵も関ヶ原の戦いに参戦していた