戦国時代を終焉させた「関ヶ原の戦い」って?徳川家康がその後日本の支配者に
「天下分け目の合戦」として知られる関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突し、結果は家康の勝利に終わりました。これにて戦国時代は終焉を迎え、家康が日本の支配者として全国を支配することになるわけですが、関ヶ原の戦いとは一体どんな内容だったのでしょうか。この記事で詳細をまとめています。
徳川家康 は 豊臣五奉行 を支持していた 前田利家 が死んだ後
その 前田家 を継いでいた 「前田利長」 と
豊臣五奉行 の1人 「浅野長政」 が結託し
「徳川家康 暗殺計画」 を計っていたと言う事を公表
五奉行 の1人 「浅野長政」 は失脚
家康 はこの計画をしていた 「前田家」 を討伐するとして
兵を集めて出陣の準備を進めます
まつ(芳春院)
この騒動は 前田利家 の妻であった 「まつ(芳春院)」 が
徳川家 に自ら人質となりに行き
前田家 が 徳川家 に従う姿勢を見せたため回避されました
徳川家 は 豊臣五大老 の NO.2 だった 前田家 を従える事になり
さらに 豊臣五奉行 も弱体化させます
「天下はこのまま徳川家康のものになるのではないか(なっているのではないか)」
という風聞が広まっていました
1600年正月
豊臣家 の中で最も力を持つに至った徳川家康は
各地の大名家に年賀の挨拶を求めました
ところが、この挨拶を上杉家だけは断り
さらにそれを伝える使者であった家臣を謀反の疑いで処罰しようとします
そのためその家臣は 上杉家 を出奔(離脱)
家康 に 「上杉景勝(上杉家の当主)に謀反の気配があります」 と報告
上杉家 が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており
合戦の準備をしているという話は流れていました
目次 - Contents
- 関ヶ原の戦い
- 豊臣秀吉 の死
- 五奉行と五大老の争い
- 関ヶ原の過程でもっとも主要な人物となったのが
- しかし、石田三成は嫌われ者だった
- 「官僚(政治家)」 だから
- 「関ヶ原の戦い」 の主要原因
- 「家康派」 と 「三成派」 に
- 前田利家の功績
- 前田利家 死去
- 石田三成 暗殺未遂事件
- 徳川家康 の屋敷に
- 石田三成 は謹慎処分に
- 大阪城
- 徳川家康 暗殺計画
- まつ(芳春院)
- 「天下はこのまま徳川家康のものになるのではないか(なっているのではないか)」
- 1600年正月
- 直江状
- 大谷吉継
- 「徳川討伐」 の挙兵を宣言
- 「関ヶ原の戦い」 の前日
- 島左近の提案
- 関ヶ原の戦い前日 2
- そして決戦
- 東軍の勝利
- 敗戦の将 石田三成
- 「干し柿はたんの毒だから食わぬ」
- 宮本武蔵も関ヶ原の戦いに参戦していた