戦国時代を終焉させた「関ヶ原の戦い」って?徳川家康がその後日本の支配者に
「天下分け目の合戦」として知られる関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突し、結果は家康の勝利に終わりました。これにて戦国時代は終焉を迎え、家康が日本の支配者として全国を支配することになるわけですが、関ヶ原の戦いとは一体どんな内容だったのでしょうか。この記事で詳細をまとめています。
この豊臣家の内部対立が
「関ヶ原の戦い」 の主要原因となっていったのです
「家康派」 と 「三成派」 に
秀吉の死後、徳川家康が勝手に婚姻や知行の斡旋などを行っていたのは
非難されるべきものでしたが
それを受けた武将にとってはありがたいものであり
おまけに非難している石田三成サイドは嫌われていましたから
武将たちはそれぞれ 「家康派」 と 「三成派」 に分かれていく事になります
前田利家の功績
それがすぐにトラブルに発展してしまうことはありませんでした
豊臣五大老 の NO.2 としての権力と
多くの武将や大名たちから慕われていた人徳を併せ持ち
前田利家が生きている間は、彼が仲裁を努めていたため問題は表面化しなかった
彼も徳川家康 の勝手な行動に反発しており
豊臣五奉行 寄りの立場として、武断派 の武将の暴発を抑える役割も果たしていました
前田利家 死去
1599 年3月 前田利家 死去
仲裁役を失った豊臣家の内部分裂はどんどん激化
石田三成 暗殺未遂事件
豊臣家の武将として活躍しており
石田三成 と対立していた 豊臣家 の武断派の武将7名が結託
「細川忠興」、「加藤嘉明」、「浅野幸長」
「福島正則」、「加藤清正」、「黒田長政」、「藤堂高虎」
石田三成 を亡き者にしようと襲撃を計画
目次 - Contents
- 関ヶ原の戦い
- 豊臣秀吉 の死
- 五奉行と五大老の争い
- 関ヶ原の過程でもっとも主要な人物となったのが
- しかし、石田三成は嫌われ者だった
- 「官僚(政治家)」 だから
- 「関ヶ原の戦い」 の主要原因
- 「家康派」 と 「三成派」 に
- 前田利家の功績
- 前田利家 死去
- 石田三成 暗殺未遂事件
- 徳川家康 の屋敷に
- 石田三成 は謹慎処分に
- 大阪城
- 徳川家康 暗殺計画
- まつ(芳春院)
- 「天下はこのまま徳川家康のものになるのではないか(なっているのではないか)」
- 1600年正月
- 直江状
- 大谷吉継
- 「徳川討伐」 の挙兵を宣言
- 「関ヶ原の戦い」 の前日
- 島左近の提案
- 関ヶ原の戦い前日 2
- そして決戦
- 東軍の勝利
- 敗戦の将 石田三成
- 「干し柿はたんの毒だから食わぬ」
- 宮本武蔵も関ヶ原の戦いに参戦していた