【美輪明宏】差別?政治的内容?テレビやラジオで放送禁止の歌特集!【ザ・フォーク・クルセイダーズ】
2012年の紅白歌合戦では美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」が印象的でした。世の中にはヨイトマケのようにたいへんいい歌であるにもかかわらず、放送禁止になっている楽曲があります。また、過去には放送禁止だったものが、現在は公共の電波に乗っているものもあります。 ここでは、これらの「放送禁止」とされた歌を紹介します。
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「ザ・フォーク・クルセダーズ(The Folk Crusaders)」とは、1965年に京都で結成されたフォークバンドである。大学生だった加藤和彦が雑誌の読書欄でメンバーを募集し、北山修、井村幹夫、芦田雅喜、平沼義男の5人で始動。井村と芦田が脱退し、3人での活動が主だった。1967年にプロデビューを果たし、「帰って来たヨッパライ」や「悲しくてやりきれない」などのヒット曲を生み出した。
フォーククルセダース(略して、「フォークル」)は、加藤 和彦さん、北山 修さん、はしだ のりひこさんで一躍有名になったフォークソンググループです。
昭和42年ですが、「帰って来たヨッパライ」で実質的なスタートを切りました。
加藤 和彦さんと北山 修さんは、それぞれ京都でフォークソンググループを持っていました。
このフォーククルセダースは、学生(加藤さんは龍谷大学 北山さんは京都府立大学)のころから有名でした。
彼らに目をつけたのは、東芝EMIです。
テレビ全盛期に入ったころです。お笑いもまだ未完成で、ミュージシャンと言っても、大手の「渡辺プロダクション」がその多くを抑えていたから、完全な独立系である「フォークル」は、このころ進出してきた大手電機メーカー傘下の音楽グループ企業は、このフォークルをひそかに着眼していました。
東芝EMIは、なんとかフォークルとの専属契約を果たします。
でも、「どうせ売り出すなら、もっと”笑い”とれる人間を、くっつけてみたら?」ということで、同志社大学でミュジシャンをしていたはしだ のりひこさんを加えたトリオでの売り出しを企画します。
加藤さん、北山さんのグルーㇷ゚は、「イムジン川」に代表されるような、差別問題を取り上げたフォークソングを意図していました。
ところが、これではちょっと”暗い”と指摘されて、「帰ってきたヨッパライ」を世間にリリースすることにしたのです。
レコードの早回しとかで出てくる「アンニュイ」な歌声が、当時の若者には、受けました。
「オラは死んじまっただ、、、天国見に行ったダ、、、天国良いとこ、一度はおいで、酒は旨いし、ネエちゃんはキレイだ、、、ワア、ワア、ワア、ワア、、、」このフレーズ、ビートルズの「Ya、Ya、Ya」をもじったものです。
フォークソングにパロデイを加えて、”笑い”とることに徹しました。
果たして、彼らのプロットは、大変成功しました。
ただ、大学生までの「限定ユニット」と約束していたので、わずか1年間で”解散”となってしまいました。
これ以外にも、メンバー間で意思疎通がうまく行かなかったりして、惜しい解散となったのですが、はしだ のりひこさんは、解散後、「はしだ のりひことシューベルツ」とか、「はしだ のりひことクライマックス」で時流に乗りました。
加藤さんは、時代におもねないで、若手発掘に尽力します。サデスチック・ミカバンドで始まり、のちにYMOの登場を成し遂げました。
でも、加藤さんと北山さんは、解散のとき、「心の空白」に悩まされます。はしださんとの別れを悔みました。
そこで、「あのすばらしい愛を、もう一度」という曲をリリースします。これは、「はしだ のりひこさんとの、セッションを、もう一度」ということを暗喩した、パロデイです。
もうちょっとグループ続けたら、もっと受けたのですが、高度成長の時代でした。おのおのが進む道が違ったのです。
北山 修さんは、何とか加藤さんとはしださんとの交流復活を願っていました。
ところが、はしださんは原因不明の低血圧に悩まされていました。
加藤さん、北山さん、そしてアルフィーの坂崎さんで、1回だけ「フォークル再結成」をNHKテレビでやりました。
残念だったのは、加藤さんが借金苦にして自殺したこと、そしてはしださんが「パーキンソン病」で、もう余命がなかったことです。
でも、昭和の40年代を代表する「フォークル」は、今でも斬新なアイデアを出すトリオで、今ではなくなった「フォークソング 日本版」を成功させた最初のグループです。
加藤さん、はしださんの死を悼む人は多いでしょう。
もう一度、あの昭和高度成長期にあった歌と笑いをミックスしたフォークソンガ-のことを知る人は多いと思います。
「冥せよ、早すぎた天才フォークル」、せめてもの追悼として、結びといたします。