なんとも不思議なゴジラ映画
東京湾で船を襲う怪物が出現した。
そんな時、町の生物学者の山内博士(矢野明)たちは、海岸で大きなおたまじゃくし形の不思議な生き物を発見する。
しかし、それがヘドラの最初の形だった。
やがて巨大化し、陸上に上がり飛行するヘドラ。
ヘドラの出す硫酸ミストに住民は次々とやられていく。
そこへゴジラが出現し、ヘドラと対決する。
富士の裾野で踊りながらヘドラに殺されていく若者たち(柴俊夫ら)。
山内博士は電極版を使ってヘドラを乾燥させることを提案する。
果たしてヘドラを倒すことはできるのか? --------。
なんとも不思議なゴジラ映画だ。
ヘドラはヘドロから生まれた怪獣。他のゴジラ映画と違い、社会派とでも言うべきなのだろうか?
ヘドラはヘドロを食い、工場の排ガスを吸って大きくなっていく。
海を泳ぐだけの第1期、陸上歩行も可能な第2期、飛行も可能になった第3期、直立しゴジラと対峙する第4期。
徐々に大きくなっていく様には、ゾッとするような恐怖感がある。
その姿は、実に醜悪で無気味だ。
そして最後には、ゴジラよりも巨大になるのだ。
この映画には、公開当時、深刻な社会問題だった、公害問題に対する作者の怒りが反映されている。
またオープニング曲の「美しい空を返せ! 海を返せ! コバルト、カドミウムがどうしたこうした」といった、サイケデリック調の歌も1970年代っぽくて凄い。
このように書いてくると、この映画が面白そうな気がしてくるけれど、はっきり言って、映画としては、あまり面白くない。
"町の科学者が出てきて、怪獣を倒すヒントを見つけ、それで怪獣を倒す"という、従来のゴジラ映画の骨格は、確かに継承している。
しかし、ゴジラとヘドラの対決になっても音楽もほとんどなく、映画的なクライマックスに持っていこうとしていない。
つまり全然盛り上がらないのだ。
出てくる自衛隊も数人だけだし。戦っている迫力がないのだ。
襲われた街は、テレビのニュースで出てくるだけだし、パニックシーンとか都市の崩壊とか、画的な見せ場がほとんどないのだ。
もっとも演出力の問題というより、それ以前に予算がなかったのかも知れない。
出演者はノースターだし、柴俊夫が出演しているが、無名時代の別名での出演だ。
特撮シーンはとにかくチャチすぎる。
ヘドラとゴジラは、ナイトシーンでの対決が多いのだが、これが実に暗いのだ。
お金がなくて、周りの風景やバックを作るとこまで予算がまわらなかったから、暗くしてごまかそうという、感じがしてならない。
そして飛行するヘドラを追いかけるため、ゴジラは後ろを向いて放射能をはき、その勢いで空を飛ぶという掟破りもするのだ。
いくらなんでも、それはないだろうと思う。
監督はこれが第1回監督の坂野義光。劇場用作品で監督したのはこれ1本だけらしく、あと分かっているのはこの後、あの封印された怪作「ノストラダムスの大予言」の脚本を舛田利雄と共同で書いたというだけ。
でも「ノストラダムスの大予言」も書いているという事は、公害問題や環境問題に関心のある人だったのかも知れない。
あらためて、21世紀の今観直してみると、公害問題こそ聞かなくなったが、今人類が直面している"地球温暖化問題"と結び付けると実に恐い気がしてくる。
傑作なのか駄作なのか、実に判断に迷う作品だ。
ゴジラ映画としてのスペクタクル、ドラマ的な面白さは、ほとんどない。
極端に言えばATGのアート系のような作品だ。
確かに、この作品は、核の恐怖を描いた、第1作目の「ゴジラ」の路線に戻った作品だという気もする。
やっぱり、なんと言っても、第1作目の「ゴジラ」は、まず映画として圧倒的に面白かった。
でもこの作品は、映画的な盛り上がりは一切なく、ある意味、つまらない。