「変わらない」を楽しむ映画
スコット・マン監督のスリラー映画「フォール」は、非常に単純明快な物語の構造である。主人公は友人とともに、高さ数百メートルの廃鉄塔に上るが、梯子の崩落により吹き曝しの頂上に取り残されてしまう。そこからどうやって地上に戻るか方法を探るのが1時間半続いてゆく。従ってカメラの映すシーンは常に頂上を映して代わり映えしないし、登場人物も少ない。それにもかかわらず本作品では飽きを感じさせないのである。
それは前述した2つの要素によって、観客が主人公の心理の複雑さ、そして映画全体の伏線構造により意識を割くように導いているからだろう。
例えば主人公にとって鉄塔に上るきっかけは、夫を亡くしたトラウマを克服するためだった。それが、友人と夫をめぐる不貞があきらかになり、鉄塔の頂上で2人は常にともに居続けなければならないジレンマが生じるのだ。登場人物が少ないからこそ、主人公とその友人、そして死んだ夫との三角関係という強烈なドラマに物語の強烈な推進力が生まれるのである。
そして、冒頭から前半部にかけての伏線が、後半になって次々と回収されていく一連の流れも、観客に緊張感を生み出してゆくだろう。伏線が必ずしも登場人物たちの状況を好転させるものにはなっていないが、その中でも伏線の白眉はやはり主人公の幻覚の場面であると思う。途中友人は命を落とすが、主人公はそれを受け止められず、常に隣にいるかのように友人の幻覚を見続けた。それが観客に知らされるのは、友人の死からずいぶん経ってからである。その事実が知らされた観客は、まるで記憶のページをめくるように、それぞれのシーンで感じた違和感に思いを巡らすことになる。この叙述トリックは主人公の疲労と恐怖という極限状態に置かれていることによって説得力を増しているのである。
観客は常に代わり映えしない風景を見続けて、その場しのぎは成功するが、根本的解決に至らない焦燥感を最後まで持ち続けるだろう。本作はそんな「変化しない」ことを楽しむための映画なのである。