1925年、イリノイ州シカゴに生まれる。1943年、高校卒業後に
シカゴ美術館附属美術大学に入学するが一学期で退学、のち陸軍に入隊。
1953年、ペーパーバックを出版するダブルデイ社の専属アーティストとして、
挿絵やブックデザインなどの仕事を始める。同年、絵本デビュー作品となる
『弦のないハープ またはイアブラス氏小説を書く』を発表。
1962年、自身の出版社Fantod Pressを立ち上げ独立する。
1977年、ブロードウェイの舞台『ドラキュラ』のセットと
衣裳デザインを担当し、トニー賞を受賞。
2000年4月15日、マサチューセッツ州の病院にて心臓発作で死去。75歳。
1965年に明るみに出た「ムーアズ殺人事件」。
イギリスで二人の男女が4年にわたり5人の子供を残虐に殺して
荒野(ムーア)に埋めていた事実が明らかとなった。
「もう何年も本の中で子供たちを殺してきた」と自ら言う
エドワード・ゴーリーが、この現実に起きた悲惨な事件によって
心底動揺させられ、描いたのが本書である。
ただひたすら救いようがない内容。被害者はもちろん、加害者にも救済は
まったくありません。モナとハロルドの夫婦はいわゆる精神障害者。
二人が共謀して子供を殺す様が、淡々とした文章で綴られてゆきます。
お読みになる際は、後味の悪さを覚悟してください。
AからZまでが名前の頭文字についた子どもたち。
登場と同時に次々と怪我や死に遭う。ただそれだけの、
あっけなくも悲惨な話が、マザーグース風の2行ずつ脚韻を踏んだ
軽快なテンポのうたに乗って進む、エドワード・ゴーリーの代表作。
左ページに英語の原文、右ページに白黒のペン画、画の下に
キャプションのような邦訳がついた、怖い絵本だ。
階段から落ちる、びょうを飲む、火だるまになる、
線路で圧死、沼でおぼれる、オノでグサッ、ケンカのまきぞえ…。
26人の子どもたちは、実に26通りの事故や犯罪に遭って、死んでいく。
ここまで正面から当然のように子どもの死を陳列されると、
いったいこれは何?と考え込んでしまう。
26人の子供たちが次々と不運な死に方をします。
いったい子供に何の恨みがあるのか首をかしげて
しまいそうになりますが、不思議と嫌な感じがしないのは
その淡々とした作風のせいかもしれません。
風の強いとある冬の晩、館に妙な奴が闖入(ちんにゅう)してきた。
そいつは声をかけても応答せず、壁に向かって鼻を押しあて、
ただ黙って立つばかり。翌朝からは、大喰らいで皿まで食べる、
蓄音機の喇叭(らっぱ)をはずす、眠りながら夜中に徘徊、
本を破る、家中のタオルを隠すなどの、奇行の数々。
でもどういうわけか、一家はその客を追い出すふうでもない。
うろんな客の、とがった顔にぷっくらした下腹、短い脚などの
キャラ造型はゴーリーファンの間でも人気が高く、ゴーリー生誕
88周年にはグーグルのロゴにも登場しました。
どこの西棟(ウエスト・ウイング)なのか?
いったい何が描かれているのか? すべてが見るものの
想像力にゆだねられてしまう、途方もなく怖い、文字のない絵本。
廃墟のような建物の中に、ぽつりぽつりと人の姿。
みな言葉もなく寂しげに佇むのみ―。
不安な夢から目覚めた時の感覚と、同じ読後感が
味わえます。
ある日、軍人の父親にアフリカ行きの命令がきた。
それが、主人公シャーロットの不幸のはじまりだ。
以来、父の戦死、落胆してたちまちやつれ死ぬ母、
ただ1人頼みの叔父は、こともあろうにレンガの
落下で脳天を割られ、あっという間に孤児になるシャーロット。
寄宿学校へ入れられるが、そこでもいじめられて脱走、悪人の中へ。
ところが、死んだと思われていた父が生還。
あろうことかそれがさらなる不幸のきっかけになろうとは…。
不幸から不幸へと転落するシャーロットを、不気味に見守る
トカゲのような化け物。これは彼女の不幸を突き放した目で見る
私たちの姿なのか、それとも深遠から私たちを見つめ返す怪物なのか…。
生涯で70回ほどの取材を受けたゴーリー氏のインタビューを
集めた本書。作風やエドワードという名前から、よくイギリス人と
間違われたそうですが、生粋のアメリカ人でアメリカから出たことも
なかったそうです。
アメリカの作家・イラストレーター、デザイナーとして独特の世界を築いた、
エドワード・ゴーリー。
博覧強記の才能をたっぷりと愛するための、日本語でのファンサイトができました。
これから、アメリカから直輸入した貴重なゴーリー・グッズの販売や、日本が世界に誇る
ゴーリー・マニアでありコレクター、濱中利信さんのコレクションも紹介して参ります。
出典: www.edwardgorey.jp