ビートルズに初めて単独インタビューした日本人星加ルミ子と「MUSIC LIFE」
自分の昔の夢の一つに「MUSIC LIFE」みたいな洋楽専門の雑誌の編集者になる!というのがありました。その夢は叶いませんでしたが、今でも絵や文章を書く生活をしているのはこの時の夢が土台になっています。そして当時の私の憧れの女性が、「MUSIC LIFE」で編集長を務められた星加ルミ子さんでした。
星加ルミ子氏 プロフィール
洋楽専門雑誌の草分け的存在だった「MUSIC LIFE」
ミュージック・ライフ(MUSIC LIFE)は、シンコー・ミュージック(創刊当時は新興音楽出版社)が編集・発行した音楽雑誌。主に洋楽を取り上げた。1998年12月号をもって休刊。
2011年1月から、IPad/iPhone用の無料アプリ「MUSIC LIFE plus」として再刊された。
出典: ja.wikipedia.org
なんとその歴史は1930年代にまで遡ります。
1937年 - 流行歌の雑誌として創刊(題名は『ミユジックライン』)。当初は月刊誌ではなく不定期刊だった。
1938年 - 『歌の花籠』と改題。
1943年 - 太平洋戦争の影響により休刊。
1951年 - 『ミュージック・ライフ』として復刊。
1964年 - 4月号で初めてビートルズ特集を組む。一ヶ月後、表紙だけ切り取られた同誌が大量に返品されてきたという[1]。
1998年 - 12月休刊。
出典: ja.wikipedia.org
「MUSIC LIFE」という名称での創刊は、1951年9月号(8月20日発売)で、初代編集長は草野昌一氏でした。(故人)
星加さんは草野氏の後を継ぎ、1965年から編集長になったのです。
当時の表紙の一例
そして星加さんといえばやっぱりこれ!
その時の「苦労」を星加さんはあるトークショーの中でこのように語っておられます。
──'64年にビートルズは大規模な北米ツアーを敢行。各地の会場はもちろん空港からホテルまで、彼らが行く所は何万人というティーンエイジャーの女の子に埋め尽くされ、そのスーパースターぶりは否応難しに日本のメディアにも届いた。そこでなんとか記事を作るためには現地ロンドンに取材に出向くしかないと、マネージャーのブライアン・エプスタインに取材を申し込んだものの丁寧に断られたのが同年の秋のことだった。
星加:その後、東芝音工の石坂専務に協力をお願いしに行ったんです。そうしたらビートルズのレコードを出している英国EMIの重役スタンさんに掛け合ってくださって、“'65年の5月いっぱいビートルズは映画「HELP」の撮影に入っているが、6月にはその音源のレコーディングでスタジオ入りするから、その時に来たらチャンスがあるかもしれません”という連絡をいただいて。そこで“チャンスがあるかもしれない”という言葉を頼りに、とにかく行ってみようということで日本を発ちました。何でもビートルズ関連の素材があれば…ということでドイツのハンブルグに寄って、ビートルズがデビュー前に出演していたスタークラブやカイザーケラーで支配人にインタビューし写真を撮り、それからカメラマンと通訳と落ち合うためにパリに行ったんです。そこではフランス・ギャルやシルヴィ・バルタンとかの取材をして、6月の初めにやっとロンドンに着きました。そこでスタンさんに挨拶に行ったんですけど、彼から“エプスタインというのはタフでハードでスマートな男だから気をつけなさい”と聞かされて。最初意味がわからなかったんですけど、“精神的に凄く強くて気難し屋で頭がいい”ということだったんですね。その後、ブライアンに会いに行ったら、最初に“君は何日まで居るんだい?”って尋ねられたんです。“取材できるまで帰りません、もしできなければドーバー海峡に飛び込みます”とつたない英語で答えたら、“そうか…、でも多分ダメだと思うよ”って人ごとのように言われて(笑)
──数日後、再度ブライアンを訪ねた星加編集長はある物を土産に持っていった。
星加:英国は騎士道の世界ですから、刀がいいんじゃないかと思って日本刀を持っていきました。それも本物じゃなきゃ意味がないと真剣を一振り(もう時効だとは思われるが、メンバー分模造刀四振りと一緒に袋に入れ機内持ち込みをし、税関も“お土産用の玩具だ”と通関したとのこと)。刀を抜いて刃を見たブライアンの目の色が変わったのを私は見逃しませんでした。これで取材の可能性が96%くらいまで上がったって思いました(笑)。そうしたら、また出発日を聞くので“16日までは居て、その後ニューヨークに行きます。エルヴィス・プレスリーやサイモン&ガーファンクルの取材が決まってますので”って半分ウソですけど(笑)答えたんです。
1965年EMIスタジオで初取材
──取材日程を出す場合、海外では離日の前日に出すことが多いと言われている。果たして6月15日、滞在先のホテルに連絡が入り、慌てて着物に着替えお土産を持った星加編集長は夕刻EMIスタジオに向かう。そこでは「イッツ・オンリー・ラヴ」をレコーディング中の4人がいた。
星加:ここから先は実際にビートルズに会った時のエピソードになるので、一緒に取材に入り4人の素晴らしい写真を撮ってくださったカメラマン長谷部宏さんに入っていただこうと思います。今日のゲスト長谷部さんです(拍手で迎えられ長谷部カメラマン壇上へ)
長谷部:僕はビートルズのことはまったく知らなかったんで、パリで「ハード・デイズ・ナイト」を観た。そしたら女の子たちの悲鳴が凄くて、こんなの撮るのやだなって思った(笑)。で、実際に会ってみたらこれが全然お高くとまってないし。
星加:それどころか、気取りの全くない普通の男の子、もの凄い才能を持った普通の二十代の男の子たちだったんですよ。
長谷部:星加さんが着ていった着物に興味津々でね。
星加:このビッグ・ベルトは何だ?とか、長い裾には何を入れるのかとか。そこからすっと打ち解けていったんです。4人の中じゃジョン・レノンが一人ちょっとひねくれてるようなことを言われてましたけど、全然そういう感じじゃなくて。私が他の3人と話してると、初めは離れていて様子を伺いながら段々近づいて仲間に入ってくる。彼はすごく用心深いというかちょっと気が小さいところがあって。
長谷部:シャイなんだよ。
星加:とっても繊細なんですね。その後ミュージック・ライフの読者から預かった4人それぞれへの質問10個をタイプしたものを元にインタビューしようと思ったら、ポールが“見せてごらん、これ全員にそれぞれするの?君の英語だったら明日の朝までかかるから(笑)、僕に渡して”って言って、質問状をそれぞれに渡して説明してくれたんです。そうしたらメンバーが色々と書き込んでくれて。最初の質問“ポールの髪は茶色って書いてありましたけど、時々黒く見えるんです。どちらですか?”にはポールが抱腹絶倒の大ウケで、足をバタつかせて笑いながら“みんな、僕の髪何色だ?”って(笑)。そういうユーモアのある質問がよかったんでしょうね。始める前はインタビューは30分って言われてたのが3時間を越して。
長谷部:でも、録音したのを聞かされるのはまいったな。どうだどうだ?って聞くから、まぁ分んないけどいいんじゃないって(笑)。
星加:上のミキサー室から下のスタジオに録音した演奏だけを流してくれてたんですよ。エプスタインに曲名を聞いたら「涙の乗車券」だって言ってましたけど…。まぁそんな風に世界的にも人気絶頂のスーパースターを3時間も取材できたんですからね。そう、ジョン・レノンが“もし日本に行ったら相撲をみたい”って言ったのにピンと閃いて、メンバーの手形も取らせてもらいましたた。取材が終わってから、日本に“banzai”って電報を打ちました。
以上、「星加ルミ子トークショー」から一部抜粋
「MUSIC LIFE」には星加さんの他にも名物編集長がずらり。
星加さん以降にMUSIC LIFEの編集長を務められた方々もみなさんそれぞれ個性的な方が勢ぞろいされていました。
中でも特に1978年頃から1990年まで編集長をされていた東郷かおる子さんは、「ミーハーは素敵な合言葉」という素晴らしいお言葉を残されています。(個人的にほんとにそう思うので!)
また、日本のグループサウンズで最高峰のバンドのひとつザ・タイガースのメンバーだった岸部シローさんが、一時期音楽特派員として在籍されていたこともあったそうです。
その他、ヘビメタ専門誌「BURRN!」創刊時のメンバーだった増田勇一さんも1997年まで編集長を務められています。