解離性障害を考える3~「青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」
解離性障害を扱った作品のうち、この話を最後に持ってきたのは「最も救いがなかったから」です。扱っているテーマのヘビーさもさることながら、物語に安易な救いを用意しないというのは潔いのですが、同時に「エンターテインメントである必然性」という問題も抱えてしまうからです。「当たり前にあるものは当たり前に書く」という作家の姿勢は、エンターテインメント性とは相いれない部分があるとも思えてしまうのです。
解離性障害を考える2~「ゴールデンタイム」 - RENOTE [リノート]
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解離性障害を扱った作品で、2番目に紹介するのは「ゴールデンタイム」です。記憶を失い別人格となった主人公が、記憶が戻ること=今の自分が消えてしまうことという恐怖を描いた作品でもあります。何が「自分」を「自分」たらしめているのか、そもそも「自分」とは何なのか。ライトノベルとしてはやや重すぎるんじゃないかというテーマに敢えて挑戦した作品で、今読み返すとちょっと時代が早すぎたような気もしてきます。
解離性障害の「分かりやすい原因」
「青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」(作・鴨志田一、イラスト・溝口ケージ)で解離性障害に襲われるのは、主人公の妹です。LINEいじめが原因で登校拒否となり、そこから解離性障害につながっていくのです。
解離性障害によって現れた別人格を家族、特に母親は認めようとしません。結果として主人公は妹と一緒に家を出て、2人で生活を始めなければならなくなるまでの話が描かれています。
救いのない結末
そういう重いストーリーだけに、何らかの救いが用意されていると思う人も多いかもしれませんが、実際のストーリーではそういう方向には進みません。「明日、昨日の君に逢えなくても」のように別人格の経験が生かされることもなければ、「ゴールデンタイム」のように2つの人格が統合されることもありません。
解離性障害によって現れた別人格は、昼の学校に行くという目標を果たす前に消えてしまうだけです。そういうライトノベルらしからぬ救われなさが淡々と描かれているだけです。
「当たり前にあるものは当たり前に書く」
以前、雑誌に掲載されたインタビューで気になる発言があります。
―『青春ブタ野郎』シリーズでもそうですが、鴨志田さんは十代の少年少女ならではの“痛み”を描き、それとどう向き合うかということをていねいに描いていらっしゃいます。“痛み”を描くことにどんな想いを込めているのでしょうか。
鴨志田:想いというほど大げさなものではありませんが、当たり前にあるものなので、当たり前に書くようにはしています。
つまり、当たり前にあるものは当たり前に書いているだけということです。
「けれど、そんな夢のような解決策はない。残酷でもなんでもなく、当たり前のようにふたつは成り立たないのだ」(281ページから引用)
主人公にこう言わせているように、救いのない結末もそれが当然の結果としてある以上は、そう書いているだけなのです。
これは恐ろしくエンターテインメントと相性の悪い考え方ではないでしょうか。あるものをあるがままに書くということは、汚いところや醜いところもそのまま書いてしまうことにもなります。そのあたりは作家としてはともかく、エンターテインメント作家としては不安を残す部分ではあります。
この作品には解離性障害のトリガーとなったLINEいじめをはじめ、ネット社会の抱える問題を描いている側面もあります。それについては、いずれ紹介していきたいと思っています。