メソポタミア地域の遺跡からみる有史以前の文化発展の歴史!農耕・会計・動物の家畜化などの起源を紹介

人類発展の起源は、メソポタミア文明から始まったものだと考えられている。メソポタミア地域には多数の遺跡群が残っており、そこから発掘されたものから、文字を使用する以前の人類がどのように文化を発展させていったのかを推測することができるのだ。記事中では農耕・会計・土器・都市の発展・動物の家畜化などの起源を、発掘された遺物の画像とともに解説している。

【農業の始まり】

出典: www.syriatoday.ca

テル・アブ・フレイラ遺跡

テル・アブ・フレイラ(Tell Abu Hureyra、アラビア語:تل أبو هريرة)は古代のレバント東部・メソポタミア西部にあった考古遺跡。今から11,000年以上前に穀物を栽培した跡が見られ、現在のところ人類最古の農業の例となっている。

集落は少数の円形の住居から構成され、木や小枝等で作られていたと考えられる。人口は最大で100人から200人であった。この時期、食料は野生動物の狩猟、魚釣り、野生植物の採集で得ていた。住居の地下には食物が蓄えられていた。

出典: ja.wikipedia.org

最古の農耕跡ですが、はじめは狩猟採集生活をしていたようです。

一方、11,050年前のライムギの耕作・栽培の証拠がこの遺跡から検出された。この時期は、最終氷期が終わり温暖化に向かっていた気候が再び急激な寒冷化を迎えたヤンガードリアスという寒冷期の始まりにあたり、この地域の気候の乾燥化によって野生動物や野生のムギ類が減少し、採集に依存していた人々は食糧確保のために農耕を始めたとされている。

出典: ja.wikipedia.org

そして600年ほど放棄されたあと再び集落は大きく発展します。当時の農耕は略奪農業と言い、何度も同じ畑で生産し、土の栄養がなくなったら別の場所に行くという方法で行っていました。農耕をしていてもずっと同じ場所で暮らしていたわけではないようです。

また家畜を集めて飼育することも始まった。今から7300年前には土器が使われ始め、機織りもその少し前に始まった。この集落は今から7000年ほど前、紀元前5900年から5800年頃に放棄されたと考えられる。

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農耕が始まったのは現在(1950年)から約11000年前ですが、土器の使用は約7300年前と3000年以上の差があります。これには、遊牧を行う移動生活者にとって割れやすい土器は馴染まなかったとする説や、紀元前約11000年に最古の土器を作った日本から伝わったとする説もあります。

テル・アブ・フレイラ遺跡は、ダム建設によって現在では湖の底に沈んでしまっています。

エリコ遺跡

エリコは、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれる。海抜マイナス250mの低地にある。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、人々が住み着いた。

写真はテル・エッ・スルタン。

初期の痕跡はテル・エッ・スルタンにあり、紀元前約1万年前~前9000年前まで遡る。テルは丘を意味するアラビア語で、人間の長期にわたる営みの積み重ねによって形成されたものと考えられている。丘の規模は南北350m・東西150m・高さ2.5mである。

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氷河期の終りにオアシスを見つけてキャンプを始めたのがこの集落の始まりのようです。最盛期には泥と葦で作られた70戸もの住居があったとか。

古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。世界最古の町と評されることもある。

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集落の周りに壁を作ったのは洪水対策のためだとされています。

エリコ遺跡初期の約9000年前の地層では住居跡が見られず、石器や骨器の他に祭壇と思われる遺構が発見されています。世界最古の神殿遺跡とも呼ばれるトルコのギョベクリ・テペ遺跡と同様に、人間は定住生活よりも先に神や祖先を祀る祭祀的活動を始めたと考えられます。両方の遺跡とも、死者の頭を家で保管して体は埋葬していたと考えられています。ギョベクリ・テペでは巨石に頭のない人が彫られているので、文化的に共通点があるかもしれません。

ギョベクリ・テペについて→http://matome.naver.jp/odai/2142851222065479501

チャタル・ヒュユク

アナトリア地方南部、現在のトルコ共和国、コンヤ市[1]の南東数十km、コンヤ平原に広がる小麦畑をみおろす高台に位置する新石器時代から金石併用時代の遺跡である。その最下層は、紀元前7500年にさかのぼると考えられ、遺跡の規模や複雑な構造から世界最古の都市遺跡と称されることもある。

チャタル・ヒュユクの遺丘は、チュルサンバ (Çarsamba)・チャイ川の旧河床を挟んで東西にあって、東側は、長径500m、短径300m、高さ20m弱の卵形で西側に比べて規模が大きい。うち新石器時代の文化層は15mに達し、14層の文化層が確認されている。年代的には放射性炭素年代測定で紀元前6850年から同6300年にあたる時期のもので、チャタル・ヒュユクの本体である。

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ふつう、居住区というものは、家々が並び、その間を道路が通る。ところが、チャタル ヒュユクには道が一本もない。ウソのような話だが本当だ。もちろん、理由はある。面積効率はいいし、防衛という点ではピカ一。では、どうやって、家々を行き来したのか?屋根が道路だったのである。古代人の知恵もなかなか侮りがたい。

出典: www.benedict.co.jp

頭蓋骨が集落のまったく別の場所で発見されることからそれらの遺体の頭蓋骨は、儀礼に用いられたと考えられている。頭蓋骨の中には、漆喰と黄土色の絵具で彩色され、人間の頭を「復元」しようとしているものもある。

出典: ja.wikipedia.org

チャタル・ヒュユクでは彩色された壁画も見つかっていて、そこにも頭のない人物像が描かれています。メソポタミア地方周辺の広い地域で、同じような祭祀が長い間行われていたと考えられます。

イェリコやチャタル・フユクでも小規模な潅漑は行われていた可能性はあるが、サマッラ期になってようやく人々はがなりの距離わたる運河を掘り、維持する技術を身につけたのである。

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これらの遺跡からは小規模な灌漑により、雨水以外を利用した農業をしていたようです。

【会計の始まり】

出典: www.maa.org

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