日本野球界のスター・ダルビッシュ有の伝説・画像・動画まとめ

ここでは日本野球界が誇るスター選手、ダルビッシュ有の伝説・画像・動画などをまとめた。1試合で120球を投げ切ってチームに貢献したり、同じく日本出身のスターであるイチローと対決したりと、華々しい活躍をしている。

ダルビッシュ 有(ダルビッシュ ゆう、英語表記:Yu Darvish, 1986年8月16日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手)。血液型はA型。マネジメント契約はエイベックス。愛称は「ダル」。フルネームはダルビッシュセファット・ファリード・有(ダルビッシュセファット ファリード ゆう、ペルシア語:فرزاد درويش صفت[1]。

~かっこいい経歴~

【プロ入り前】
幼少時代はアイスホッケーと野球をしておりアイスホッケーの練習が本人にとってあまりにもきつかったため野球の道に進むことを決めた[2]。小学校2年生から本格的に野球を始め、全羽曳野ボーイズで全国大会ベスト8、世界大会3位という成績を収め、50以上の高校からスカウトがあったが、環境面等を理由に東北高等学校に入学する。

1年生秋からエースに就き、195cmの長身から繰り出す速球は当時から150km/h近くを計測。2年春夏、3年春夏と4度甲子園に出場。2年夏は決勝で坂克彦を擁する常総学院に敗れて準優勝、3年春の対熊本工戦では史上12度目・10年ぶりとなるノーヒットノーランを達成する(ちなみに、熊本工のエースは岩見優輝だった)。最後の夏の甲子園では真壁賢守とともに活躍し、3回戦で松本啓二朗、井上雄介を擁する千葉経大附に敗れたものの、高校生No.1ピッチャーとの呼び声もあった。

2004年9月、喫煙している写真が週刊誌に掲載され、高野連より厳重注意処分を受けた。同年11月17日、プロ野球ドラフト会議では涌井秀章・佐藤剛士と並ぶ目玉投手として注目され、日本ハムがダルビッシュを単独1位指名。12月17日、父親同席のもと、契約金1億、年俸1500万、出来高5千万の高卒新人としては松坂大輔、寺原隼人以来の条件で、2004年ドラフト指名選手の中で最後に仮契約を結んだ。

高校通算成績:登板67、投球回332 1/3、奪三振375、防御率1.10
甲子園通算成績:登板12、完投7、完封4、投球回92、奪三振87、四死球27、自責点15、7勝3敗、防御率1.47
センバツ:登板4、完投2、完封1、投球回30、奪三振29、四死球7、自責点9、2勝1敗、防御率2.70
選手権:登板8、完投5、完封3、投球回62、奪三振58、四死球20、自責点6、5勝2敗、防御率0.87

2005年
前年12月の自主トレ中に痛めた右ひざの関節炎の影響で、1月の新人合同自主トレでドクターストップがかかり、春季キャンプは二軍スタートとなった。
写真週刊誌で未成年者にもかかわらず喫煙していたことが報道された。それに対し球団は、2月21日に鎌ケ谷市の球団寮へ送還・無期限謹慎と謹慎中の社会貢献活動を命じる処分を言い渡した(2月28日の12チーム合同新人研修会は出席)、これを受けて東北高校は2月22日に本人を停学処分とした(3月1日の卒業式は停学処分期間中でまだ十分でないとして参加させず。3月8日、停学解除を以って他の生徒より1週間遅れで卒業)。
その後二軍でリハビリテーションを続け、5月5日にイースタンで初登板しその後完封勝利も記録。6月に一軍昇格し一軍初登板初先発の対広島戦で8回2失点で勝利を挙げると、それ以降先発ローテーションに定着。14試合に登板し完封勝利を含む5勝(5敗)を挙げた。
契約更改では年俸倍増の3000万円で一発サインした[3]。2005年、パチンコ必勝本DREAMS(綜合図書)でダルビッシュを主人公にした野球四コマ漫画「がんばれ!ダルビッシュくん」が連載された。後に「がんばれダルビくん!!」にタイトルが変更されている。子供向け月刊漫画雑誌『コロコロイチバン!』では、ダルビッシュをモチーフにしたサッカーギャグ漫画『ダルくんNo.1』(作者:大崎亮平)が連載されている。
2006年
2月に右肩を痛めた出遅れもあり4月までは防御率5.16、WHIP1.45と不振であったが、5月30日以降は自身公式戦10連勝を記録。そのままシーズン終了まで1度も敗戦投手になることは無く、最終的に規定投球回に到達し防御率2.89、12勝5敗の成績を記録した。7月7日の対西武戦(インボイスSEIBUドーム)では先発を任されたが、ビジター用のユニフォームを札幌ドームのロッカーに置き忘れ、八木智哉のユニフォームを借りて登板し、7回1失点の好投でチームを勝利に導いた。この日の日本ハムは前身の東映フライヤーズが1961年9月に達成して以来のチーム11連勝(球団タイ記録、当時)がかかった試合だった。ちなみにその時本人は「これで負けたら最悪です」とコメントしている[4]。この年の終盤あたりから、相性の良さから鶴岡慎也とバッテリーを組む事が多くなり、2007年も中盤以降からはダルビッシュ登板時の捕手はほぼ鶴岡で固定されていた。
プレーオフでは2ndステージ(対ソフトバンク戦)第1戦に先発し、11奪三振1失点完投で勝利。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは初戦を任されるも6回3失点で敗戦投手となる。3勝1敗で迎えた第5戦に中4日で再び先発し、7回1/3を1失点で勝ち投手となり、チームは44年ぶり2度目の優勝を果たした。この活躍により日本シリーズ優秀選手賞を受賞した。
アジアシリーズでは台湾代表のLa Newベアーズとの決勝戦に先発。7回10奪三振無失点の好投で勝ち投手となり、シリーズMVPを受賞。44年ぶり2度目の日本一、アジアシリーズ制覇に貢献した。
契約更改では3000万円から4200万円アップの7200万円プラス出来高払いでサインした[5]。

2007年
初の開幕投手を務めた。8月9日、札幌ドームで行われた対楽天戦に先発して、4-2で勝ち投手となったダルビッシュは「狙っていた」という試合後のヒーローインタビューで、女優・サエコとの結婚を報告した[6]。
シーズン成績は15勝5敗、防御率1.82、WHIP0.83、被打率.174、完投数は12球団トップの12であった。シーズン終盤には成瀬善久(ロッテ)と防御率争いを繰り広げ、0.003点差で最優秀防御率は逃したが、今中慎二以来14年振りに全7項目の選考基準を満たして沢村賞に選出されたほか、最多奪三振、ゴールデングラブ賞・ベストナインのタイトルを獲得。チームのリーグ連覇に大きく貢献し、パ・リーグシーズンMVPに選出。21歳でのMVPは沢村栄治、稲尾和久の20歳に次ぐ年少記録となった[7]。北京オリンピック野球日本代表監督の星野仙一からは、代表のエースにも指名された。
クライマックスシリーズ2ndステージでは第1戦に先発登板し、9回2失点で勝ち投手となる。2勝2敗で迎えた第5戦クライマックシリーズ最終戦でも成瀬相手に勝利し、日本シリーズ進出を果たした。2勝を挙げて日本シリーズ進出の原動力となったダルビッシュはクライマックスシリーズ第2ステージMVP賞を受賞した。2年連続で中日と対決した日本シリーズでは、第1戦で先発し1失点13奪三振で完投、川上憲伸との投げ合いを制し勝利投手となった。1勝3敗で迎えた第5戦で再び先発し7回を1失点11奪三振で抑えるものの、味方打線が山井大介、岩瀬仁紀のリレーの前に1人の走者も出すことができず(完全試合=継投による達成のため参考記録)敗戦投手となり、中日の日本一を許したが、この好投が評価されシリーズ敢闘選手賞を受賞した。
契約更改では7200万円から178%アップ、1億2800万円の大幅増の2億円(推定)プラス出来高で一発サインした。プロ4年目の2億円到達は、5年目で到達の和田毅らを抜いて最速であり、史上最年少の2億円プレーヤーとなった[8]。月刊女性ファッション誌『GLAMOROUS』同年8月号では初めてヌード写真を披露し[9]、次いで女性誌『an・an』8月号でも、表紙とグラビアに登場し、今度はフルヌード写真を披露した[10]。ジャンクSPORTS ファンタスティックストーリー[リンク切れ]のインタビューでは、幼少の頃にハーフで生まれてきた事を理由に周囲の人間から「お前は日本人じゃない」と差別されてきた事がきっかけで、「自分が日本人である事」と「日本球界に留まる事」に強いこだわりを持つようになり、「もしメジャーリーグに行くってなるくらいやったら僕は野球を辞めます。日本の子供たちだって、おもしろくないじゃないですか。子供達を楽しませるためには、そういう(日本に残る)人も必要やと思うし」と語った。

2008年
3月20日、2年連続2度目の開幕投手を務め、ロッテを相手に1-0での完封勝利を挙げる。10奪三振を奪い、開幕戦を1-0で完封した上に、2桁奪三振を奪ったのは史上初の快挙となった[11]。前年以上のペースで白星を積み重ね、シーズン前半から勝利数、防御率で楽天の岩隈久志とタイトル争いを繰り広げた。シーズン唯一の直接の投げ合いとなった4月10日には、両者ともに5回までノーヒットピッチングで、岩隈が100球で被安打3の1失点完投、ダルビッシュが95球で被安打3の完封という投手戦の末に勝利を収めている。7月17日、東京ドームで行われた対楽天戦では89球10奪三振無四球完投で11勝目を挙げた[12]。しかし、前半戦最後の登板となった7月24日の対ロッテ戦では、165球の完投も、満塁ホームランを浴びる等、5失点を喫して負け投手となった。
北京オリンピック予選リーグでは初戦となる対キューバ戦のマウンドを託されたが、日本のメディアによるインタビューに答えたユリエスキ・グリエルからは「簡単に打てる」と言われ[13]、試合では4回0/3を投げて4失点と打ち込まれ、敗戦投手になる。試合後は長髪をバッサリと切って、丸刈りにして球場に現れた[14]。「おれもやるからお前もやれ」と半ば強要されて田中将大も丸刈りにし、田中は「僕は道連れにされました」とコメントした。ちなみにダルビッシュの頭をバリカンで刈ったのは川崎宗則であり、この翌日、二人に続いて川崎宗則、阿部慎之助も丸刈りとなって球場に現れた[15]。しかしこの1戦で星野監督の信頼を失い、予定されていたメダルのかかる決勝トーナメント準決勝の先発も剥奪される。結局その後の登板は消化試合だった予選リーグ最終戦の対アメリカ戦の先発や、3位決定戦の対アメリカ戦での敗戦処理で登板した。
チームに復帰後は5試合に先発して2完投を含む5勝0敗、防御率1.29、WHIP0.66という投球を見せ、ロッテとの激しい3位争いを制する原動力になった。クライマックスシリーズでは2試合に登板し、1失点14奪三振完投と3安打完封で2勝、防御率0.50を記録した。この年は主要タイトルこそ獲得できなかったものの、防御率・勝利数・奪三振の全てでリーグ2位、五輪での離脱期間があったにもかかわらず投球回と奪三振は2年連続で200を超え、防御率は2年連続の1点台、WHIPも同じく1.00以下を記録した。沢村賞の選考基準も2年連続で全項目達成したが、21勝という数字を評価された岩隈の単独選出となり、2年連続での選出はならなかった。基準を全項目達成して沢村賞を獲得できなかったのは基準ができた1982年の江川卓以来2人目となった(ただし、1982年は沢村賞を受賞した北別府学も基準を全項目達成しているのに対し、岩隈は完投数が選考基準に達していなかった)。
クライマックスシリーズでは1stステージ(対オリックス戦)第1戦に先発し、9回14奪三振1失点で完投勝ちした[16]。この大一番でレギュラーシーズン後半は控えていたフォークボール、ツーシームを解禁し、速球は最速153km/hを計測。また、この試合で奪った14奪三振は日本シリーズを含むポストシーズン史上最多となった。負ければ西武に王手がかかるクライマックスシリーズ2ndステージ第2戦に先発。右打者が多い西武打線の内角をえぐるツーシームを多投し、この年打撃が強力だったライオンズ打線を3安打完封した[17]。被安打3はポストシーズン史上最小を記録した。
12月1日、契約更改に臨み、7000万円増の年俸2億7000万円プラス出来高で一発サインした。プロ5年目としては球界史上最高額となった[18]。19日(日本時間20日)にはサエコとハワイ・ホノルル市内の教会で挙式を行った。挙式には、父・ファルサ、同年3月に誕生した長男ら家族のほか、藤井秀悟、川崎宗則、西岡剛、青木宣親にV旅行中の西武・涌井秀章、中島裕之らが参列して祝福した。

2009年
第2回ワールド・ベースボール・クラシック (WBC) の日本代表として出場し、松坂大輔、岩隈とともに先発3本柱として監督の原辰徳から指名される。3月5日、日本代表の初戦である対中国戦に先発投手として出場し、4回を無安打無失点に抑え勝利投手となる。また、3月18日の対韓国戦でも先発投手として出場するも、この試合では初回に失策も絡み3失点を喫し、5回7奪三振3失点(自責点2)で敗戦投手となる。3月23日の準決勝、3月24日の決勝では先発を松坂、岩隈に譲りいずれの試合も抑え投手として出場し、決勝では勝利投手となった。この試合では球速100mph(約161km/h)を計時し、現地の放送では108mph(約174km/h)も計時されたが、こちらは球場内の電光掲示板では表示されず、誤計測と見られた。大会通算で13回を投げ、2勝1敗、防御率2.08、大会最多の20奪三振、WHIP1.00の記録を残し、マニー・ラミレスやケン・グリフィー・ジュニアらといったメジャーの強打者からの賞賛も浴びた[19]。
シーズンでは3年連続開幕投手として岩隈との投げ合ったが、初回にいきなり3点を献上し、9回3失点で自身初の開幕敗戦投手となるとともに、岩隈との対戦で初の黒星を喫した[20]。4月24日の対オリックス戦では苦手と言われ続けた屋外球場でプロ初完封。その後の試合でも安定したピッチングを続け、5月は4勝0敗、防御率0.90、WHIP0.90の活躍でパリーグ投手部門月間MVPを獲得した。7月15日、対ソフトバンク戦(福岡ヤフードーム)の完投勝利後ヒーローインタビューでは第二子を授かった事を公表した[21]。その後も好成績を持続し、7月22日、前半戦最終登板の対ロッテ戦を9回2安打1失点で勝ち投手となり、自身通算60勝目とした。通算107試合目での60勝到達は2リーグ制後、高校出の選手としては松坂の111試合をしのぐ最速記録であった[22]。シーズン前半戦を12勝3敗、防御率1.31、WHIP0.83、122奪三振の好成績で折り返し、この年のオールスターゲームでもファン投票・選手間投票ともに1位選出となる。7月24日のオールスター第1戦に中1日で先発登板したが、アレックス・ラミレスの投手強襲打が右肩を直撃してしまい、1回を投げ終えて緊急降板した[23]。以降は防御率2.80、WHIP1.09と調子を崩し、8月21日の対ソフトバンク戦では自己ワーストの6失点(8回)で黒星を喫した[24]。打球が肩に当たってから、試合後半に球威が落ち、失点する場面が目立ち、内出血が引いた後も肉離れのような硬さがあり、肩の張りが出やすい状態であったため、翌日の8月22日に右肩の違和感を訴えた2006年6月以来になる故障による登録抹消となった。9月13日に一時復帰し、対ロッテ戦に先発して8回1失点で15勝目を挙げるも、本来の球速は影をひそめ、その次の9月20日の対オリックス戦では7四球の乱調で5回2失点で降板となり、その後右肩と腰の違和感により再び登録を抹消され[25]、その後は登板機会もなくシーズンを終えた。

チームはリーグ優勝を果たし、クライマックスシリーズ2ndステージに進出して勝利を収めるが、故障は完全回復せず自身の登板はなかった。しかし、日本シリーズでは依然不調ながらも、11月1日、第2戦に先発し、巨人を相手に普段は多投しない100km/h台前半のスローカーブを有効に使い、6回を7奪三振2失点で切り抜け、4-2で勝利を挙げた[26]。怪我の箇所に負担がかからぬよう、歩幅を狭めてキャッチボールのような投球フォームであったが、最速149km/hを記録した。お立ち台では「今の状態では出来過ぎ以上。一世一代の投球ができた」と語った。シリーズ終了後、3年間オフも休まなかったこともあり、病院の精密検査で右手人さし指を疲労骨折していた事が判明した[27]。痛みは登板した11月1日以前の10月28日からあったが、誰にも告げずマウンドに上がり、右手人さし指の疲労骨折と左腰、左臀部痛の中で巨人打線を抑えて勝利投手となった。
後半戦の戦線離脱があったものの、現役の先発投手で唯一となる3年連続WHIP1.00以下をマーク。最優秀防御率と最高勝率を獲得し、ベストナインとMVPを受賞した。プロ入り5年以内で2度目のMVP受賞は稲尾和久、イチローに次ぐ3人目の記録である。契約更改では6000万円増の3億3000万円プラス出来高でサインした。1997年オフに24歳で3億円を超えたイチローを抜く史上最速&最年少での3億円プレーヤーとなった[28]。同年7月15日には自ら培ってきた技術を日本球界に還元したいとの思いから、ベースボールマガジン社から10種類の球種の握り方と投げ方を写真付きで自ら解説した「ダルビッシュ有の変化球バイブル」を出版した[29][30]。同年、山崎まさよし、槙原敬之ら男性アーティストの「泣ける歌」を集めたコンピレーション・アルバム「オトコナキ」のジャケット写真に起用された[31]。
2010年
3月20日、4年連続4度目の開幕投手を務め、対ソフトバンク戦に先発。147球13奪三振で史上5人目の4季連続開幕戦完投を果たすも、5失点(自責点3)で敗戦投手となる[32]。3戦目にしてようやく初勝利を挙げると、4月17日の対西武戦まで、開幕から5試合連続で二桁奪三振という日本プロ野球新記録を樹立した(13K→11K→11K→12K→10K)[33][34]。4月24日の対楽天戦から5月21日の対横浜戦まで31イニング連続無失点を記録し、これまでの自己最長の25イニング連続無失点記録を更新[35]。5月はWHIP1.23ながら要所を抑えて防御率0.90と好投したが、打線の援護に恵まれず1勝2敗と負け越した。右ひざの違和感により6月5日の先発を回避するが[36]、6月12日の対中日戦では7回無失点の好投で5月1日以来の白星を挙げた。7月3日の対楽天戦ではこれまでの自身の国内最速154km/hを更新する155km/hを記録[37]。続く7月17日の同楽天戦では156km/hを記録し、更に自己記録を塗り替えるが、7回3失点で負け投手となり、6月12日からの自身の連勝は5で止まった[38]。シーズン前半戦は9勝5敗、防御率1.56、WHIP1.04、143奪三振を記録。4年連続4度目のオールスターに選出され、7月23日の第1戦に2番手で登板。ワンシーム、高速チェンジアップに続く新球を披露するなど、2回を1失点(自責点0)に抑えた[39]。シーズン後半戦は69回を投げ、3勝3敗、防御率2.22、WHIP0.95、79奪三振を記録した。
シーズンを通して安定したピッチングを続けたが、規定投球回到達者中リーグワースト3位の得点援護率をマークするなど援護点が少なく12勝にとどまり、自己ワーストとなる8敗を喫した他、4年連続のWHIP1.00以下を逃したが、2008年以来となる投球回数200イニングを達成。222奪三振で最多奪三振を獲得し、1959年の稲尾和久以来となる4年連続の防御率1点台を達成し2年連続の最優秀防御率も獲得。同じイニング数を平均的な投手が投げる場合に比べてどれだけ失点を防いだかを表すRSAAでも1959年の稲尾以来プロ野球史上2人目となる4年連続40点以上を達成。

オフにはアリゾナ・ダイヤモンドバックスが獲得資金として8000万ドル(約65億6000万円)を用意する等[40]、ポスティングシステムでのメジャー挑戦が取り沙汰されたが、10月19日に自身の公式ブログで日本ハム残留を宣言した[41]。契約更改では、前年までの総額8億円プラス出来高払いの3年契約から出来高なしの単年契約を結び、現役日本人選手では球界最高年俸となる5億円でサインした。24歳での5億円到達は、1998年に当時オリックス・ブルーウェーブに在籍したイチローの25歳を抜いて史上最速&最年少での到達となり、先発投手で5億円を突破したのも史上初となった[42]。
2011年
4月12日、球団史上最長となる5年連続開幕投手を務め、対西武戦に先発。しかし、自己ワーストの7回7失点と打ち込まれ、3年連続で敗戦投手となってしまった。4月26日の対ソフトバンク戦で史上129人目となる通算1000奪三振を達成した[43]。6月15日の対阪神戦で3回裏2死3塁の場面で、打者の新井貴浩に投じた3球目が高く浮いて暴投となり、この間に3塁走者のマット・マートンが本塁に生還し、この失点で5月10日楽天戦から続く連続無失点記録がプロ野球歴代11位(現役選手では藤川球児に次いで2位)の46回2/3で止まり、パリーグ新記録の4試合連続完封も逃した[44]。最終的には自己最高の232イニングを投げ、自己最高の防御率1.44、自己最多の18勝、WHIPは先発投手の中で最小の0.83、1993年に野茂英雄が記録して以来のシーズン250奪三振、日本プロ野球史上初の5年連続防御率1点台を記録し、RSAAでも史上初となる5年連続40点以上を達成。この年は2008年以来3年ぶりに自身の記録を更新する3度目の沢村賞選考基準全項目達成をしたが、同じく基準を全項目を達成し勝利数、完投数、防御率、勝率で勝る田中将大に2対3で惜しくも敗れた。沢村賞の選考基準の全項目達成しながら受賞を逃した回数が複数回となるのは史上初の事態となった。

~かっこいい選手としての特徴~

出典: blogs.yahoo.co.jp

走者のいない場面でもセットポジションで構え、レギュラーシーズンでの最速156km/hの速球(フォーシーム、ツーシーム(シュート)、ワンシーム)と数種類のスライダー[45]、球速の違う数種類のカーブ[46]、カットボール、チェンジアップ、フォークボール、SFFなど多彩な変化球を投げ[47][48]、球種の全てが平均的な投手を上回る質を持つ[49]。2010年の平均球速は146km/hだったが[50]、オフに取り組んだ肉体改造により翌2011年には平均球速149km/hまで増加し[46]、9回でも平均球速148km/hを下回らなくなった[46]。さらに同年からはサイドスロー[51]やワインドアップからの投球も見せるようになった[52]。本人によると「もともとサイドスローなため、サイドの方が球速が出る」という[53]。

ナックルボールやシンカーも投げられるが、2007年以降公式戦では投げていない[47]。ルーキーイヤーの2005年はシンカーを決め球とするピッチングだったが、2006年からはチェンジアップ、フォークボールの精度が向上したためシンカーをほとんど投げなくなり、翌2007年には封印した[47]。2007年からはカットボールと縦スライダーを、2008年からはSFFを習得し投げ始めた[47]。2010年のオープン戦からは同僚だったバディ・カーライルに教わった沈む速球であるワンシームを投げ始め[54]、日本プロ野球で同球種を投げた初の日本人投手となった[55]。同年6月19日の対オリックス戦からは140km/h台の高速チェンジアップを投げ始めた[56]。高速チェンジアップの利点は、直球に近い球速で曲がる為、打者が直球と見分けが付きづらいこと、通常のチェンジアップに比べて制球がしやすい点があるという[56]。さらに同年のオールスターゲームでは打者の手元で浮き上がるカットボールを投げ[57]、対戦した阿部慎之助は同球種を「サイドとかアンダースローのようなふわっと浮くボール」と説明した[57]。カーブは球速の違う数種類のカーブを使い分けていたが、2011年からはカットボールの握りで投げる100km/h前後の遅いカーブを主に投げるようになった[46]。

与四球率は2008年には1.97(リーグ7位)を記録したものの2010年までの通算は2.58であり、2008年には白井一幸から「非常に近いレベルにあるのは確かだが、細かいコントロールは当時の松坂のほうがまだいい」と評されていた他[58]、メジャーのスカウトからは「コントロール(ストライクを投げる能力)は平均以上である一方でコマンド(狙ったスポットに投げる能力)は平均的」[59]、「球数を減らす必要がある」[60]、「制球を良くすれば、ティム・リンスカムと肩を並べる存在となる」と評価された[61]。

クイックは1.3秒台と盗塁阻止の意識は薄く[62]、2011年の日本シリーズ第6戦のTBSテレビ中継でゲスト解説を担当した際には「僕は一塁から二塁への盗塁は、走りたいならどうぞ、という感じ」「走者が二塁に進んでから力を入れて投げれば良い」「警戒しすぎて打たれた方が悔いが残る」と語った。

強風が吹くことで知られるQVCマリンフィールドでは制球に苦しむことが多く、シーズン4年目の2008年4月30日まで勝利がなく、同年まで屋外球場を苦手としていたが、2009年は屋外球場で32回を投げ、防御率1.13をマーク。2010年は48回を投げ、防御率0.56と好成績をマークするようになった。

シャドーピッチングをしてフォームを固めることをしないなど、独自の調整法を採用している。これについて日本ハムチーフトレーナーの中垣征一郎は「体感的、もしくは体験的な時間や空間的な位置を本人のなかの感覚で細かく調整できる。内部感覚による身体運動の具現力が彼は非常に優れている」「体全体を使って最後は腕を振るということではなく、体全体から生み出される力で自然に腕が振られているという感覚を、彼は持っている」と証言している[47]。体の左右のバランスを取る目的で利き腕ではない左腕でもキャッチボールをしており、変化球や60メートルほどの遠投をすることも出来る[63][64][65]。

~かっこいいタイトルと表彰~

(タイトル)
最優秀防御率:2回(2009年、2010年)
最多奪三振:3回(2007年、2010年、2011年)
最高勝率:1回(2009年) ※最優秀投手として表彰
( 表彰)
MVP:2回 (2007年・2009年)
沢村賞:1回 (2007年)
最優秀投手:1回 (2009年)
ゴールデングラブ賞:2回 (2007年・2008年)
ベストナイン:2回 (2007年・2009年)
月間MVP:5回 (2007年8月、2008年3・4月、2008年9月、2009年5月、2011年5月)
ゴールデンスピリット賞:1回 (2010年)
アジアシリーズMVP:1回 (2006年)
パ・リーグクライマックスシリーズ第2ステージMVP:1回 (2007年)
日本シリーズ敢闘選手賞:1回 (2007年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (2006年)
セ・パ交流戦優秀選手賞(日本生命賞):1回 (2009年)
オールスター優秀選手賞:1回 (2007年)
フレッシュオールスター優秀選手賞:1回 (2005年)
JA全農Go・Go賞:2回(最多奪三振賞:2009年5月、2011年6月)
最優秀JA全農Go・Go賞:1回(2011年)
「ジョージア魂」賞:2回(2010年度第4回、2011年度第4回)
報知プロスポーツ大賞:1回(パ・リーグ部門:2006年)
パ・リーグ特別表彰:1回(両リーグ初の5年連続防御率1点台:2011年)

~かっこいい記録~

(投手記録)
初登板・初先発:2005年6月15日、対広島東洋カープ5回戦(札幌ドーム)
初奪三振:同上 - 4回表無死、打者:グレッグ・ラロッカ
初勝利:同上
初完投:2005年8月6日、対西武ライオンズ13回戦(札幌ドーム)
初完封:2005年9月18日、対東北楽天ゴールデンイーグルス20回戦(札幌ドーム)
(打撃記録)
初安打:2006年5月18日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場) - 5回表無死、投手:下柳剛
初打点:2008年6月17日、対広島東洋カープ3回戦(広島市民球場) - 2回表二死、投手:大竹寛
(節目の記録)
1000奪三振:2011年4月26日、対福岡ソフトバンクホークス1回戦(札幌ドーム) - 8回表無死、打者:本多雄一 ※史上129人目(投球回数1058回2/3で史上7番目の速さ)
(その他の記録)
公式戦12連勝:史上5人目(2006年5月30日 - 2007年4月14日)
高卒新人の初登板初勝利:史上12人目(2005年6月15日)
高卒新人の完封勝利:史上14人目(2005年9月18日)
20歳以下の日本シリーズ勝利:史上5人目(2006年、第5戦)
2試合連続14奪三振以上(9回まで):史上2人目(2007年3月30日 - 4月7日)
日本シリーズ1試合13奪三振:史上3人目(2007年10月27日)
同一日本シリーズ24奪三振:歴代2位(2007年 なお、5試合での奪三振数では歴代1位である)
クライマックスシリーズ1試合14奪三振:史上最多(2008年10月11日 日本シリーズを含むポストシーズン史上最多である)
公式戦開幕5戦連続2桁奪三振:史上初(2010年4月17日)
オールスターゲーム出場:5回(2007年 - 2011年)
46回2/3連続無失点:プロ野球歴代11位、パ・リーグ歴代2位、日本ハム球団記録
3試合連続完封:パ・リーグ&日本ハム球団タイ記録

~かっこいい登場曲~

COLOR『涙が落ちないように』( - 2008年6月27日)
エミネム『Like Toy Soldiers』(2008年7月3日 - 2009年)
COLOR『涙が落ちないように』(2009年)
GReeeeN『道』(2009年)
シクラメン『なみだのあと』(2010年)
GReeeeN『道』(2011年)

~かっこいい動画~

20100918ダルビッシュ有投手のダイジェスト風@札ド

08.10.1日本ハムCS決定安打集他

20111011 ダルビッシュ、圧巻の投球で西武・中村を三振に獲りゲームセット...

vision.ameba.jp

ダルビッシュの雄叫び

shining_dark1227
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@shining_dark1227

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