【西城秀樹】病気や事故で全身/半身不随になった有名人まとめ【坂上二郎】
人はその一生のうちに不慮の事故に遭ったり、病気にかかってしまうことがあります。たとえ一命を取り留めたとしても、その後は車椅子生活を余儀なくされることも…。この記事では、病気や事故で全身/半身不随になってしまった有名人についてまとめました。辛い境遇にも負けず懸命に自分と戦う彼ら/彼女らの姿からは、何か大切なことを学ばせていただいているような気がしますね。
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西城 秀樹(さいじょう ひでき)とは、日本の歌手、俳優である。広島県広島市出身。1955年4月13日生まれ。郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」の1人として1970年代の日本歌謡界を牽引した。本名は木本 龍雄(きもと たつお)である。
洋楽好きの父親の影響で幼少期から音楽に親しみ、小学生時代からドラマーとしてバンド活動を開始。ザ・ベンチャーズやローリング・ストーンズなどの洋楽に深く影響を受ける。山陽高等学校在学中にロックバンド「ジプシー」のリードボーカルとなり、地元での活動中にスカウトされて1971年に家出同然で上京。芸能事務所「芸映」に所属した。1972年3月にシングル「恋する季節」で歌手デビュー。1973年の「情熱の嵐」で初のオリコンベストテン入りを果たし、続く「ちぎれた愛」「愛の十字架」で連続1位を獲得して不動の人気を得る。1974年にはドラマ『寺内貫太郎一家』に出演して俳優としても脚光を浴び、同年にはソロ歌手として日本初となるスタジアムワンマンコンサートを大阪球場で開催した。さらに「傷だらけのローラ」で2年連続の日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、同年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たした。
1975年にはフランス語版「LOLA」がカナダのヒットチャートで2位を記録するなど海外へも進出。日本武道館でのソロコンサートを11年連続で開催する。1979年には「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が200万枚を超える大ヒットを記録し、音楽番組『ザ・ベストテン』で番組史上唯一の満点を獲得、日本歌謡大賞など数々のグランプリを受賞した。1981年にはオリコン史上初となるシングル30曲ベストテン入りを達成し、総売上枚数も1,000万枚を突破。1983年に芸映から独立して「アースコーポレーション」を設立した後は、独立第1弾の「ギャランドゥ」をヒットさせた。1988年にはソウル・オリンピックの前夜祭に出演し、日本人として初めて韓国の公式の場で日本語での歌唱を行った。1990年代以降もアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」のヒットや、音楽番組『青春のポップス』の司会、チャリティー活動など多方面で活躍を続けた。
私生活では、2001年に槇原美紀と結婚し3児をもうけた。同年に最初の脳梗塞を発症(当時は二次性多血症と発表)し、2003年にも2度目の発症をしたがリハビリを経て復帰。2011年末に再発し右半身麻痺と言語障害の後遺症が残るも、リハビリを続けながらステージに立ち続けた。2018年4月14日の足利市でのコンサートが最後の公での歌唱となり、同年4月25日に自宅で倒れて入院。同年5月16日、急性心不全のため昭和大学藤が丘病院で死去した。63歳没。没後、妻の著書により、1996年頃からの糖尿病の罹患や、脳梗塞が実際には計8回に及んでいたこと、さらに2014年暮れに難病である多系統萎縮症の診断を受けながらも最期まで懸命に闘病していた事実が公表された。
西城さんの魅力というのは、原曲のイメージ、コンセプトなどを遥かに超越したメロディ・歌声にあります。それを如実に示したのが代表曲『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』です。
そもそも西城さんの『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』というのは、1970年代にアメリカで一世を風靡した音楽グループ「ヴィレッジ・ピープル」の原曲をカバーしたものですが、ヴィレッジ・ピープルという音楽グループ自体がゲイを支持基盤とした音楽グループであり、原曲は分かりやすく言ってしまえば「ゲイの応援歌」であったため、当時アイドルのイメージに厳しかった周囲のスタッフからは「西城にこんな歌をカバーさせることができる訳がない!」と猛反対が起こったそうです。
にもかかわらず第10回日本歌謡大賞、FNS歌謡祭'79・グランプリ、第12回日本有線大賞・有線音楽賞を受賞し、オリコン1979年度年間7位の記録を獲得する辺り、原曲を超越する相当のパワーがあったことがありありと窺えます。綺麗事を抜きにして、音楽というのは国境もイメージも思想も関係なく、ただひたすら歌手が発する歌声、情念などが評価されるものだと痛感させられます。