原作マンガで描かれている臨場感や主人公の異常性にはまだまだほど遠い…
原作マンガ「響」では主人公の天才であるが故の異常性が表情などの細かな部分にも描かれており、その一つ一つを読み手側が回収していくことで異常性の中にある純粋な文学への思いや、一人の人間としての喜怒哀楽を読み解いていくことができる。映画「響-HIBIKI-」では映画初出演にして、初主演である欅坂46 平手友梨奈が原作と類似する容姿・雰囲気を利用し、そのような難しい一種の伏線のようなものを見事に演じることで原作ファンをも納得させる演技を披露した。しかし、どんなに好演をみせても脚本が面白くなければ意味がない。原作マンガとは少しずつ時系列をズラした内容の映画になっていた為、原作ファンとしてはあるべき場所に伏線がなく、考えることも、盛り上がることもなくオチがやってきてしまう。本来であれば話が進むにつれて膨らむはずの想像や臨場感などはほぼ皆無。少し物足りないような感覚に陥ってしまう。映画ラストでは結局のところ今後の主人公がどうなるのかもわからず、不完全燃焼の状態で終わってしまう。その後PRの為のテレビ出演時やメイキング映像の中で監督と平手友梨奈のエピソードとして、『初めて監督とあった際、(脚本の内容が)「つまらない」と伝え、その後脚本を少し変更した。』というものがある。変更した上での出来上がった映画がこれであるならば、最初はどれほどの酷かったのか…