エヴァ。それは、心理学+宗教+哲学+ロボットのハイブリット作品。
『新世紀エヴァンゲリオン』は日本中の誰に聞いても「それ知ってる」と返ってくる作品の一つではないだろうか?しかし、「どんな話?」と質問を一つ変えると「よく分からない」、「難しいって聞いたから見たことがない」という答えが返ってくる作品でもある。エヴァの魅力とは何なのだろうか。
「エヴァ=ロボットアニメ」だと思っている人も多いだろう。大枠だけ見るとそうかもしれない。14歳の少年碇シンジが、突然正体不明の化け物「使徒」との戦いに巻き込まれて、人類防衛部隊NERVの総司令である父親から「エヴァに乗れ」と言われ、無理矢理戦わせられる。そんな話である。未経験のパイロットが急に操縦桿を握り、なんだかんだで敵を倒せてしまうという流れとしては、『機動戦士ガンダム』シリーズを彷彿とさせる。
確かにエヴァはロボットらしきものが出てくる「バトルもの」である。しかし、私たち読者もある種の「バトル」を強いられるのが、この作品の魅力だ。その一部を紹介しよう。
エヴァのパイロットは全員が思春期真っ只中の14歳と決まっている。主人公たちは皆、自分の居場所が分からず他者とうまく付き合えない、思春期の少年らそのものである。彼らがエヴァという一つの居場所を起点に他者と触れ合うことで、傷付け合う。傷付けあうからこそ、自分の存在の輪郭が浮かび上がってくる。そうした思春期特有の「自己認識」の成長過程が描かれているのがエヴァの特殊性である。
エヴァを純粋に「かっこいいロボットもの」として楽しもうとすると、期待外れかもしれない。しかし、エヴァにハマるものならきっと誰しもが、まとめサイトやネタバレサイトに行き着くだろう。そこで知るのは、この作品に散りばめられた哲学的、心理学的、宗教学的な背景だ。「どういうこと?分からないよ!」と彷徨ううちに、気付けば聖書に詳しくなり心理学に詳しくなる。
例えば、物語の中では「自他の境界線」や「他者」といったキーワードが幾度となく出てくる。これは心理学者ユングの「ペルソナ論」であったりロシアの哲学者バフチンの「他者論」に通ずるものがある。
要するに、「ただ見ているだけでは理解しきれない」ことこそがエヴァの魅力なのだ。「そこまで難しい作品だったら、私はいいや」と思うそこのあなた!大丈夫。いつの間にか「分からない!知りたい!調べよう!」というマインドにしてくれるだけの魅力がエヴァにはある。そして、最後まで答えは出ない。エヴァの世界には、親切な「説明しよう!」はない。視聴者に説明のないままに、登場人物たちは熟知しているという物語世界が進んでいく。彼らの言葉を聞き、推察しながら解釈をしていく。そういうプロセスを視聴者に委ねているからこそ、一生涯の探求の対象として人気が出ているのだろう。