映画「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」の考察
時計職人のガトーは、第1次世界大戦で出征し戦死した息子が生きていた過去に戻りたいという願いを込めて、針が逆回転する大時計を作った。しかし、もちろん、その願いは叶わなかった。そして、その年に生まれたベンジャミンもその申し子ではなかった。彼にとっても時間は正の方向に流れている。ただ、他の人は時と共に、若→老→死という道を進むが、彼は、老→若→死と進む。
この2つの道は何か決定的に違うような気がするが、老若に囚われず、シンプルに何も出来ないひどく弱い存在が徐々にいろいろなものを獲得して成熟し、それから徐々にその獲得したものを手放して、最後に死ぬ。こう考えると、その違いは大きくない。しかしベンジャミンはそう考えず、妻のデイジーと娘のキャロラインを置いて1人旅立ってしまった。自分がいつ赤ん坊に戻ってそこからどれだけ生きるか分からない。1人では何も出来なくなった自分はデイジーとキャロラインの重荷でしかない。そんな思いだったろう。
結果、彼は85才で生まれたばかりの赤ん坊のようになり死んでいる。キャロラインが20才になる頃、ベンジャミンが60才。肉体年齢が25才の頃なので、彼がそのことを知っていればそれを選択しなかったのではないか。彼はその前半生で慈しみ深い育ての母から優しさを注がれ、日常的な老人の死でその悲しさを染みこませていた。そのために、彼は愛する家族に知られず、ひっそりとこの世から消えていくことを望んだのだろうか。
ベンジャミンは出奔してからキャロラインに沢山の手紙を送っている。それは、キャロラインへの愛に満ちている。そこに込められた人生に関するメッセージはとてもおおらかで深い。ベンジャミン自身が彼の言葉通りに生きたいのなら、ただ、気持ちのままに愛する人と一緒に生きれば良かった。やがて彼は、その自分の選択の間違いに気づいたのではないだろうか。だから、もう1度、ベンジャミンはデイジーとキャロラインの前に現れた。そして、もう簡単には元に戻せないことも知った。ベンジャミンが「こうなることは分かっていた」と言ったが、それはこのことだろう。
ベンジャミンは少年の肉体と認知症になって、もう1度デイジーと過ごすことになる。自分を認識しない愛する人と過ごしたデイジーは、生まれたての姿になったベンジャミンに自分の記憶が蘇ったことで深く報われる。ベンジャミンはそのことでデイジーに人生で最高に幸せな記憶を残すことができた。
ラストシーンでは登場人物が現れ、ベンジャミンの声のナレーションが一言でその人を説明する。彼らは笑顔で画面を観る我々に目線を合わせ、我々も笑顔にさせてくれる。役割を終え、倉庫に収まった針が逆に回る大時計は、やって来た嵐の水に浸かって止まってしまうだろう。時は元に戻せず、やり直しがきかない人生もある。でも、思った通りにやってみよう。そしたら、良かったって思える。そう信じよう。この映画のメッセージはこれではないか。