たった一つの夢を叶えようともがく青年だった男。
民主主義と自由の国と言う理想。そして、毒ガスやら塹壕戦やら精神病やら…酷い戦争だった第一次世界大戦の戦乱に乗じて金儲けをしたアメリカ。そんな二面性がギャツビーの姿と重なる。
耳鳴りのように鳴る運命の鐘の音。開いては散っていく花火。そして、ギャツビーという噂の絶えない成金男。その全てがあの当時(1925)のアメリカそのもので、そして今(公開時)そのアメリカが遂に残りの花火を打ち終えてしまうかもしれない。
いくつもの苦難を乗り越えて「偉大なる」成金になっても、デイジーの前では純粋なティーンエイジャーに戻ってしまう。ギャツビーはよく描かれていた。一方でデイジーとトムの関係については余り描かれていなかったように感じる。
だから、この映画だけじゃ彼女がなぜ「美人なおバカさん。女はそれが1番」と言ったのか余りよく分からないと思う。
この映画では小説で描かれたように偶像化さてしまったデイジーしか存在しない。つまり今回の「グレートギャツビー」映画化の主軸は、あくまでもギャツビーとニックの見た幻のような一瞬と確かに存在していたはずのあの頃なのである。(文章での彼女の心の機微は映像で見つけるのは難しく、小説内ではちらりと見える部分も見えなくなってしまうのかも知れないが)
折角ニックが冷静な観察者であり語り手として居るのに、現実の部分がないのは、これがフランス映画や文学作品そのものではなくハリウッド映画だからだと勝手に思っている。(デイジーの視点を入れてしまうとあまりに両人が弱々しくて、ディズニーの国の住人は耐えられないだろう。)
しかし、お行儀の良い感情や原作そのままなんて映画には必要ない。本当に作品が好きなら映画化にうじうじ文句言っとらんと原作何回も読め。私が映画で見たいのは燃えるような「あの頃」と「その瞬間」そして心を掻きむしるような悲劇。ハッピーエンドは見心地が良いけれど、何年経っても色あせない作品はその全てが揃っていると思う。そしてこの映画も私の中ではその一つに加わるだろうと思った。