仲間と命の大切さ、そして何より、理不尽と理想が人を成長させるということを、子供たちがネバーランドで教えてくれる。
白井カイウ・出水ぽすか原作のコミック、約束のネバーランド。全世界累計発行部数は2500万冊を超え、アニメ化はもちろん実写映画化、小説化もされている人気コミックである。その魅力はどこにあるのか。読んでみると、どうやら12歳以下という非常に幼い子供たちのストーリーのようであるが、大人たちも熱狂するのはなぜなのか。今日はその魅力に迫る。
まずこのアニメは、人間はもちろん、人間を喰らう鬼が存在する。しかし、人間対鬼の構図が簡単にできている訳では無い。主人公であるエマ、ノーマン、レイという12歳目前の少年少女たちは、全員鬼のための食糧を育てる農園で育った。しかし、本人たちはそんなことも露知らず、「ママ」と呼ばれる優しい女性に愛情たっぷり育てられ、広々とした敷地で思う存分遊び、何不自由なく食事をし、綺麗なベッドで寝る、快適な施設で暮らしていると思っていた。それが肉としての旨味を引き出すため、ストレスをかけない措置だと知るのは、定期的に里親に出される仲間が、鬼によって命を奪われる現場を見てしまったエマとノーマンだった。妹のように可愛がってきた6歳のコニー。手紙を書くね、と泣き笑いで去っていった可愛いコニー。その彼女の胸元には残酷な赤い花が刺され、絶命した顔からは生気のかけらもない。周囲の鬼たちは、そのコニーを「出荷する肉」として扱う。そう、快適な施設は、ただの「鬼の食用肉を育てる農場」だった。1番美味な、12歳までの発達した脳とその肉を喰らいたい鬼たちのための、逃げ場の無い鳥かごだったのだ。
どうだろうか。人間対鬼、という簡単な構図ではなく、鬼の世界から逃げなければいけないと自覚した人間のストーリー。案の定、エマたちは脱走を企てる。
しかし、その決行日は、思いがけずノーマンの12歳の誕生日兼出荷日の後となってしまう。味が熟す限界の期限は12歳と言われ、通常はそれより幼いうちに出荷されていた。エマとレイとノーマンが12歳まで農園にいられたのは、定期的に行なわれるテストで常にフルスコアを取っていたため、脳をより発達させより良い肉になるまで出荷を見送られていたからであった。発達の限界の期限とされる12歳の誕生日、ノーマンは自分を犠牲にした脱出計画をエマとレイに託す。当然受け入れられない2人。しかしその抵抗虚しく当日は訪れ、ノーマンは出荷への道を歩き出すのだった。
ノーマンの思いを引き継ぎ、脱出計画を決行するエマとレイ率いる子供たち。冷静で現状分析が得意なレイは、成功させるなら自分とエマのみで脱出すべきと言い張っていた。当然施設には赤ん坊もいるし、現状を理解できない子供ばかり。足手まといだということだ。しかし、ひたすらに実直でただただ優しいエマは、全員助けたい、寧ろほかの農園の子供たちだって助けたい、と言い出す。実現不可能に見えたその計画だったが、脱出は、無事成功したのだった。脱出のために壁に登った時、レイはエマの後ろで笑うノーマンを感じる。
しかし、脱出が成功したからと言っても、そこは鬼の世界。人間の世界はないのか、人間はいるのかすら分からない。鬼に襲われたら、子供たちだけでなんとかできるのか。食料はどう用意するのか。生き残るためには、用意するためには、こちらもいつかは命を奪わなければいけない。迫る非情な選択。12歳以下の子供たちが、命を奪うことで生き延びる哀しさを、身をもって学んでいく。
この「約束のネバーランド」の尊さは、子供たちの仲間意識の強さだけでなく、命の奪い合いを経て、そこから「勝利」ではなく「命の尊さ」を子供たちが学び、切なく哀しい思いに打ちひしがれるという成長の過程にある。その過程で、生き残っていたノーマンと出会うのだが、彼はその天才さゆえに、ほかの子供たちとは違う考えで自分を偽り、ただ鬼への殺戮を繰り返す人間と化していた。旅の中で、人間の敵ではない鬼もいるし、鬼には鬼のコミュニティがあると知ったエマは、鬼すらも救いたいと言い出す。かつてエマの無理難題を理解し、脱出計画を作り上げたノーマンと対立するのである。
人間が生き残るのが正義なのか。どの生物も共存する道などあるのか。子供たちがそれを問いかけるヒューマンドラマが、約束のネバーランドの中にはある。結末はぜひ、あなたの目でご覧頂きたい。