【アナタハンの女王事件】昼ドラのようなホントの話…1人の女性を巡る32人の男たちの壮絶な争い
「アナタハンの女王事件」というものをご存知でしょうか。1人の女性と32人の兵隊(全員男性)がアナタハン島という南洋の孤島に置き去りにされ、次に発見されるまでの間に男性たちが次々と謎の死を遂げていったというものです。女性が1人だけという状況でなんとなく察しがつく通り、男女関係のもつれが男性の不審死の一因のようです。まるで昼ドラの世界ですね…。
「アナタハンの女王事件」の概要
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太平洋戦争中の南海の孤島アナタハン島で1人の女性と32人の兵隊らが置き去りにされ、飢餓と孤独にさいなまれながら、日本の敗戦を知らず六年間もジャングル生活を続けた。その間、1匹の女王蜂をめぐって壮絶なまでの生と性の闘いがくり広げられ、12人が殺されたり、死んでいったという謎と猟奇に包まれた事件であった。
「アナタハンの女王事件」の経緯・流れ
舞台は小さな孤島・アナタハン島
アナタハン島はサイパン島から約100km離れた全長約9km、横幅約4kmの小さな孤島である。このアナタハン島には原住民約70人と日本人でヤシ農園経営のA氏とその部下B氏の妻・比嘉和子さんの2人が暮らしていた(B氏は、妹を連れ戻すためサリガン島に出かけたまま消息が不明になっていた)。
1944年6月頃、日本人と見られる31人の男がこの島に泳ぎついてきた。彼らは日本軍用船に乗っていた陸海軍の軍人・軍属らしく、乗っていた船ごとにわかれて生活を始めた。そのうちに米兵が島を訪れ、原住民達をすべて連れて行ってしまう。島内には日本人だけが残されることになった。
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こうして島には兵士10名、臨時徴用の船員21名の計31名が残されました。最年少は16歳、多くは20歳前後の若者ばかりでした。
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唯一の女・比嘉和子
比嘉和子は大正11年に沖縄の農家に生まれた。昭和13年2月に、サイパン島に出稼ぎに行っていた兄を頼って同島に渡り、その後、隣島のバカン島の食堂で働いていた。ここでコプラ栽培の南洋興産会社で働いていた比嘉正一(当時23歳)と結婚した。夫がアナタバン島の同社常務監督に栄転したため、18年10月に”運命の島“一緒に渡った。
和子は乳房はまる出しで、腰のまわりにシメ飾りのように木の皮で腰ミノをつけていただけ、男たちも細ヒモで前をおおっているだけであった。イヤでも、和子の豊満な肉体が目につき、男たちの欲望を刺激した。
最初の殺人
男たちの視線が不安になった和子は菊一郎に結婚してくれと頼み込み、一緒になった。しかし、菊一郎は小心な男で、いい寄ってくる男たちを撃退できず見て見ぬふりをした。
和子自身も〝男好き〟のする天衣無縫な可愛い女性で、母性本能の強いタイプであった。男の求めにも応じ、自らも誘った。これがいっそう男たちの闘争心に油を注いだ。
昭和21年9月、山中で米軍のB29爆撃機の残骸を和子らが発見、みんなに知らせた。この時、中からピストル2丁が発見された。Aが1丁持ち、Aの親友の年少者のBがもう1丁をもらった。
8カ月後、Aは和子をめぐってケンカしたCをピストルで撃ち殺した。32人の男たちは食べもののことや和子をめぐって、ささいなことで口論し、ケンカが絶えなかったが、これが最初の殺人事件となった。
Aは和子を露骨に口説きます。それはピストルによる脅迫でした。Aはこう言ったと記録されています。
《「たった一人の女だからいけねえんだよ。それに、おれは男だからな、男は何人もいるんだ。しかも、おらあ若えんだぜ……」》(『アナタハン』より)
結局、和子はAに抱かれ、Bに抱かれました。農園監督もあきらめず、事実上、和子は同時に3人の男と夫婦になったわけです。
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が、またも事件が。今度はAとBが酒を飲んでケンカになり、Aが「貴様を2.3日中にぶっ殺してやる!」と言ったのです。するとBがAを射殺したのです。
Bは菊一郎のもとへ行き「一生のお願いです!和子さんを僕にください!僕はもう和子さんがいないと生きていけません!」とお願いをしたのです。和子はBと暮らすようになりました。