『下流の宴』の登場人物から「努力」について考える(ネタバレあり)

林真理子さんの小説『下流の宴』。新聞連載されていたこちらの小説はNHKにてドラマ化されましたが、「努力」というものについて何だか考えさせられますね。報われる努力もあればそうでない努力もある。いやさ、登場人物全員報われてないんじゃないかとさえ思えます。努力するに越したことはないんですけども。

あらすじ・ストーリー

「10努力すれば2倍3倍になる」「学歴大事、とにかく勉強しろ」を口癖とする主婦、福原由美子。しかし息子の翔は中学校卒業後はフリーターとして無気力な生活を送り、彼女の嫌う「貧乏人」の娘、宮城珠緒と交際していた。「あなたとは住む世界が違う」と上から目線の由美子に、「自分が医者になれば結婚を認める」という約束を取り付け、彼女の知人である予備校オーナー指導の下猛勉強に励むのだが…。

出典: ja.wikipedia.org

学歴主義でプライドの高い母・福原由美子

「医者の娘」とのことだが、父とは早くに死別。補正下着の訪問販売をしていた母親に女手一つで育てられながら国立大学を卒業。プライドが非常に高く、「貧乏人」を「下流」と呼ぶ。

某予備校の有名講師は言いました。「報われるのは、正しい努力のみ」だと。何か矛盾しているところもあるんですよね、彼女。自分が認めない「下流の女」だからといって、必死に努力している珠緒を否定し続けているのが。結婚相手も出世とは程遠いですし、国立大学を出たのに、何だか報われていない感がある。つまり彼女の努力は方向性が間違っていた、ということなんでしょうか。

「努力」を放棄した福原翔

福原家の長男。中高一貫の私立高を受験させられて合格。勉強漬けの日々から解放されると思いきや「更なる上を目指せ」と言われてやる気を失う。高等部へは進まなかった(進めなかった?)模様。フリーターとして生活、母の嫌う「下流」の女性と交際中。趣味はゲーム。というか他のことに興味を示さない。

これは誰が見ても明らかですよね。彼は「自分のために努力する」という重大な意味を全く理解していないうちに「努力」を押し付けられてきたんですから。目標があるから努力できる、とはよく言います。でも翔の場合はそんな目標も何も与えられず、曖昧な「幸せな未来像」を押し付けられて勉強「させられていた」わけで。勉強も含めた努力は嫌だ、となっちゃったわけです。栄光や富にすら興味を持たないのは「努力しないと駄目。いや、しても駄目」という気持ちがどこかにあるのではないでしょうか。

母同様努力が「報われなかった」福原可奈

翔の姉。「男性受けがいい」という理由で本来の学力よりも(偏差値的に)劣る女子大に進学し、高給取りの男性を狙って合コン三昧。それは就職しても変わらず、年収億単位の男性と「できちゃった婚」をするが…?

元々美貌ですし、翔とは対照的に目標を持って努力してはきました。ただやっぱり「報われない」結果に。そこにはやはり「方向性を間違った」という理由があるように思われます。別にセレブ男性を狙って女磨きするのが悪いとは言いませんけども(いいとも言いませんが)、何か「セレブ生活の為の財布」程度にしか見ていなかった感は否めません。目を覚まして、別のいい人探してくださいとしか言いようがないです。

翔の恋人、宮城珠緒の「努力」は報われたとみるか?

翔の恋人。同棲中。弟が翔に迷惑をかけたと謝罪に行くが、「下流」であるため徹底的に見下されたため「医者になる」と宣言。猛勉強を開始する。

原作の挿絵だともっとふくよかだったような…。

劇中一番まっとうな部類に入る子じゃないでしょうか。自分で目標を掲げて、勉強をして。原作では塾のオーナー指導のもと勉強をし、2年かかって念願の医大に合格。翔と一緒に大学のある地域へ引っ越そうと言うのですが、「努力」のみならずそれを行う人間さえ厭う翔に拒まれて別れを告げられるのでした…。翔と一緒になりたいから頑張ったのに…。

医者の道を進むなら、翔をあきらめる、場合によっては忘れる努力もしなくちゃなりませんね。それが青春というものなのかもしれませんが。

まとめ

原作もドラマも、今後を予想させるラストではあったと思います。みんながみんな正しい、その人に向いた努力ができるわけじゃない。報われるとも限らない。でもするにできればした方がいい「努力」というもの、何だか厄介な代物に思えてきました。この作品を見ていると。若いうちは「まずやってみる」というのが一番なのかな、とは思いますが、どうでしょう?

えどまち
えどまち
@edono78

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