アルベール・カーンは、1860年にドイツ・フランス国境に近い
アルザス地方に生まれました。実家は貧しいユダヤ系の家畜問屋でした。
1870年、敗戦でアルザス地方がドイツに併合されることが
決まると、一家はその地を離れました。
16歳になったカーンは、パリで銀行員として働きながら
勉学を続けました。1889年から1893年にかけて、主に
南アフリカの金鉱とダイアモンド鉱への投機で莫大な
財産を築いたカーンは、のちに自らの銀行を設立しました。
しかし19世紀末、ヨーロッパに反ユダヤ主義の空気が漂うと、
第一線を退きます。パリ郊外のブローニュに広大な
庭と邸宅を構えると、そこを地球全体をモチーフにした庭園に
作り変えてゆきます。
カーンは世界平和を願っていました。それは、迫害される側の
ユダヤ系の家に生まれたことと関連しているのかもしれません。
カーンは「人と人との争いを失くすためには、まずお互いの
文化や思想の違いを知る必要がある。異文化を知ってもらう
ためには、ダイレクトに伝えやすい写真を見てもらう
方法がいい」と考えました。
そこで、私費でカメラマンを雇い世界中に派遣しました。
時に自らも海外に遠征して撮影された映像は、実に
72000点にも及びました。
※写真はモンゴルで撮影された現地の女性
撮影された写真は、当時まだ珍しいカラー写真で
オートクローム法という写真技法が使われていました。
色鮮やかですが、どこかレトロな独特の風合いが
あります。
※写真はインドネシア領ベトナムで撮影された京劇の役者
初めて商業的成功を収めることになったカラー写真技法は
1904年にフランスのルミエール兄弟により発明された
「オートクローム法」と呼ばれるものです。
RGB(オレンジ、緑、紫青)3色に着色したでんぷんを
白黒写真用の乾板の上に塗って3原色のフィルターの役目をさせ
カラー写真を実現しました。これは1907年から市販され
本格的なカラー写真として使われました。
出典: webcache.googleusercontent.com
カーンは1898年に「世界一周」という名前の今でいう
奨学金制度を作り、貧しい学生たちを外国へ留学させて
異文化交流を図りました。そして1910年から1913年に
かけて「地球史資料館」を設立。そこに、撮影された
映像や資料を集めました。
※写真はギリシャの農民たち
世界中に派遣されたカメラマンの中には、当時まだ
珍しかった女性の写真家もいました。
カーンは被写体を選ぶ際、有名人やお金持ちではなく
なるべく女性や子供に焦点をあてて撮るようにし、お抱え
カメラマンにもそのように指示していました。
※アイルランドで撮影された民族衣装を着た14歳の少女
戦争の様子を撮る時も、悲惨な死体ではなく
戦地で懸命に生きている兵士たちの日常風景を
数多く撮影しています。
※第1次世界大戦、フランスの兵士
銃と少女
第一次世界大戦、フランス軍に従軍した
カメラマンが撮影した写真です。
中には痛ましい写真も…
モンゴルで撮影された晒し刑にされた女性の囚人。
刑罰が過酷なことから考えて、殺人などの重罪犯
なのではないかと推測されています。
アルベール・カーンは日本びいきとしても知られていました。
自分の銀行を設立した時に、ヨーロッパ市場向けの日本国債の
発行を勧めました。彼は、日本の経済発展を信じた一人でした。
1920年代の東京で撮影された姉妹。
カーンは合計で3度も訪日しています。
カーンは日本の大隈重信とも交流し、皇室とも縁がありました。
写真は北白川宮成久王夫妻。
順調に思えたカーンの事業ですが、1929年の世界恐慌により
経済状況が悪化。1936年には、なんと破産してしまいます。
私財は差し押さえられ、写真や映像のコレクションも全て
フランスのセーヌ県に買い取られてしまいました。しかし、
これは後世の私たちにとっては皮肉にもラッキーな出来事でした。
なぜなら、そのおかげで貴重な映像類が散逸せずに、今日まで
残ることになったからです。
※写真はベトナムで撮影された女性