母国フィンランドを愛した作家 トーベ・ヤンソン
トーベ・ヤンソンはフィンランド生まれの作家で、日本では
ムーミンシリーズで有名である。彼女は物語の挿絵も
手掛けており、主人公のムーミン・トロールや個性的なキャラクター
達は今でも人気を博している。
母国をこよなく愛した作家 トーベ・ヤンソン
トーベ・マリカ・ヤンソンは1914年フィンランド生まれの画家。
児童文学、ファンタジー、小説の作家でもある彼女は、母国
フィンランドの風土を生かした作品を数多く出版しており、
高い評価を受けている。
日本ではムーミンシリーズの小説を
執筆していることで知られているが、本国では画家としても
評価が高く、壁画なども手掛けている。
出典: ja.wikipedia.org
幼い頃から天職は芸術家と決めていた
ヤンソンはスウェーデン語系フィンランド人の父であり彫刻家
ヴィクトル・ヤンソン、スウェーデン人の母であり画家のシグネ・
ハンマルステン・ヤンソンの間に生まれた。彼女は3人兄弟の長女で、
下に弟が2人いる。
小さい頃から画家になりたいという夢があり、
天職は芸術家だと考えていたという。両親の影響で子供たちが
芸術に親しむのが普通の家庭だったので、絵を描くのは自然に
覚えたという。
15歳ですでに雑誌「ガルム」の挿絵を描いていたヤンソンは、
10代から20代にかけてストックホルムの芸術大学、ヘルシンキの
アテネウム美術学校、パリの美術学校などへ通った。ムーミンの
キャラクターは、1945年に小説を発表するよりも、1年早く雑誌
「ガルム」に掲載していた。
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数々の賞を受賞する
1966年に国際アンデルセン賞作家賞、1984年にフィンランド国民
文学賞を受賞する。ムーミンシリーズの他に大人向けの小説を
発表しているが、「誠実な詐欺師」「軽い手荷物の旅」などの
短編集が発刊されている。日本ではムーミンシリーズ誕生60周年
の2005年から文庫本が発刊されているそうだ。
フィンランドでの少女時代
ヤンソンの母語はスウェーデン語だったが、
フィンランドでの生活では公用語は大半がフィンランド語
だったため、町を歩いていても自分と同じ言葉を喋っている
人があまり見当たらないという環境で育った。
スウェーデン語を使うのはフィンランドの国民全体の1割
くらいの人しかいなかったから、自国にいながら、
外国人のような生活をされていたのだろうか。
この時期がヤンソンの後の思想に大きな影響を与えた
という。
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パートナーとの満ち足りた暮らし
若い頃からたばこと酒が好きで、自宅には20代の「タバ
コを吸う娘」と60代の自画像、二枚の「自画像」を所蔵
していた。私生活のパートナーはグラフィックアーティスト
のトゥーリッキ・ピエティラ(Tuulikki Pietilä)。彼女は、
ムーミン谷博物館に収蔵された多くのムーミンフィギュアや
ムーミン屋敷の制作でも知られ、作品『ムーミン谷の冬』に
登場するトゥーティッキー(おおでぶさん)のモデルとも
なっている。
二人が30年近く夏を過ごし、ムーミンシリーズを生んだ
バルト海のクルーヴハル島での生活は、1993年の映画
「travel with Tove」、1996年に出版されたクルーヴハル
島の記録「島暮しの記録」(トゥーリッキの挿し絵)、
1998年のクループハル島での生活の記録映画
「Haru‐the island of the solitary」で見る事が出来る。
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マルチな才能を発揮し続け、天命を全うした芸術家 トーベ・ヤンソン
ムーミンは圧倒的な人気を得て、活躍の場が広がった。
ヤンソンはムーミンの舞台化のため舞台美術、
作詞、脚本などを担当したり、キャラクターデザインを
多くの企業に提供し、高評価だった。
ムーミンの仕事の他には、70年代から80年代に執筆
した大人向けの作品がフィンランド国民文学賞を受賞したり、
スウェーデン語版の絵本の挿画を引き受けたりと、
86歳で亡くなるまで休むことはなかった。
出典: moomin.co.jp
トーベ・ヤンソンの作品は、日常の生活と
密接しているものが多く、「ムーミン」シリーズも
大切なパートナーと小島で暮らす中で生まれた。
彼女の愛する四季、オーロラや白夜などの自然、
周りの人々のどれもが作品を生むエネルギーになる。
やはり、愛情なくしては作品は生まれないのである。
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