現在も正体がわからない謎の浮世絵師 東洲斎写楽
東洲斎写楽は寛政6年の5月から寛政7年3月のたった10か月の間に145点余りの作品を
版行している。彼の作品は当時活躍していた役者の大首絵が秀逸で、顔の特徴を捉えた
上で大胆なデフォルメをしている。他の絵師にはない個性の作品を短期間で大量に出した後、
突然姿を消したため話題になった稀代の絵師である。
売れない役者も描いた浮世絵師
写楽は人気のある役者だけでなく、売れない役者の絵を描き続けた。これは、
作品のモデルを自分の分身にしていたためだと思われる。蔦屋重三郎が大枚をはたいて
彼をデビューさせたにも拘らず、あまり売れない版行をし続けたのは、写楽が当時
人気があった役者ではなく端役に注目したためだとも言われる。
近年では写楽の正体が能役者の斎藤十郎兵衛で、彼がワキツレ(端役の端役)を
していたからだという説が浮上している。
東洲斎写楽という名前はどうやって名付けたのか
「東洲斎」という斎号は、東の川の中島にある居室という意味である。
写楽がデビューした1794年は、江戸城から見て東に位置する中州の土地を
東洲斎と呼んでいた。斎藤十郎兵衛がその地域に住んでいたからだとも言われている。
「写楽」という名前の由来は、彼の作品に役者の絵が多いため、「楽屋を写す」
の略という説と洒落(しゃらく)という言葉から来たものだという説もある。
元は室町時代から使われた言葉で、「物事にこだわらず、さっぱりしている」という
意味だったが、江戸時代の前期頃から「垢ぬける」という意味の「しゃれ」の当て字
として使われるようになった。写楽の作品は洒落ていて風情があるので、そう考えると
合点がいく。
「世界三大肖像画家」と称賛される
日本では人気がなかった写楽だが、ドイツの美術研究家ユリウス・クルトによる著書
『Sharaku』(1910年・ドイツ語版)の中で、彼がレンブラントやベラスケスと共に
「世界三大肖像画家」と称賛したため、大正時代から注目された。
江戸時代の頃は、写楽より初代豊国の役者絵に人気が集まったが、その理由は写楽が
役者の顔を正直に描きすぎたためという中山幹雄の説がある。
当時は役者の顔を美しく描いた絵の方を好んで買うお客が多く、デフォルメした写楽の絵は
人気がなかった。
不人気だった写楽
写楽作品はすべて蔦屋重三郎の店から出版された。挿絵の左下に、蔦屋の印(富士に蔦)が
見えるのがその証拠である。絵の発表時期は4期に分かれていたが、第一期から第4期に移るに
つれて、版画の品質が落ち人気がなくなっている。
彼の代表作といわれるのは大首絵の第1期の作品がほとんどだが、途中からは別の人間が
描いていた、または工房で大量の絵を作成したとする説もある。
写楽の正体は誰か?
東洲斎写楽は斎藤十郎兵衛とする説が優勢だが、別人だとする説もある。他の候補として
名前が挙がったのは浮世絵師の初代歌川豊国、歌舞妓堂艶鏡、葛飾北斎、喜多川歌麿、
司馬江漢、谷文晁、円山応挙、歌舞伎役者の中村此蔵、洋画家の土井有隣、戯作者でも
あった山東京伝、十返舎一九、俳人の谷素外など、多くの人物の名があげられた。
斎藤十郎兵衛がなぜ有力なのかといえば、実名を伏せなければならない人間がいなかった
からだ。当時、歌舞伎役者は「かわらもの」と呼ばれ卑しい職業とされていたが、無足
(下級武士)とはいえ士分の斎藤十郎兵衛が、役者の浮世絵を描く仕事をするのは身分を
落とすことだった。お客として観るなら良いが舞台に上がってはいけないので、副業がばれる
と困る。本業があるからこそ、たった10か月で絵師を辞めることが出来たのだという。
出典: ja.wikipedia.org
もし写楽が絵師に転職したら?
もし、写楽が転職したらどうなっただろうか。第一期で売れていたら、
そのまま制作を続け、早い時期に日本でも人気浮世絵師としてもてはや
されただろう。だが、いくら売れないといえ彼の作品の贋作があちこちで
出回ることはありえない。他の絵師達のように役者を美しく仕上げる事は
なかったが、その個性的な画風だからこそ受け入れられたのだろう。
短期間で絵師生命が終わった事は惜しいが、これからも謎が多い絵師として
歴史に残るだろう。