三谷幸喜『ベッジ・パードン』我々には"生き尽くす"義務がある。
平成日本の喜劇王・三谷幸喜が描いた夏目漱石と、19世紀のイギリスと、どこまでも醜い人間の心。おかしくて哀しくていとおしい、そんな芝居がここにある。そしてそんな芝居の中、きっとどこかに「あなた」がいる…
『ベッジ・パードン』という芝居
時は19世紀、英語教師の夏目金之助(野村萬斎)が留学で訪れたのはヴィクトリア女王の統べるイギリス。
下宿先で出会う使用人や日本人、家主家族たちと過ごす日々の中で、金之助が「夏目漱石」になるまでを描いた作品(かどうかはわからない)だ。
元はディープな展開を予定していたが、同年3月11日の東日本大震災の際に上演していた『国民の映画』が最も重くてディープな作品だったので、こんな時にこそお客様を笑わせたいという気持ちで、三谷は脚本の内容を変更した。
出典: ja.wikipedia.org
だそうだ。
だが私は三谷幸喜がこの芝居を創り出した真意は別にあると思っている。
お客様を笑わせるというよりはむしろ、「見たくないもの」を見せる芝居だからだ。
夏目金之助と「ベッジ」
タイトルの「ベッジ・パードン」は金之助が付けた使用人、アニー=ぺリン(深津絵里)の愛称である。
彼女はイーストエンドの出身で、コックニー(『雄鶏が産んだような形の悪い卵』を意味する、かつてこの地域の労働者階級で話されていた英語)を話すのだが、彼女が言った「I beg your pardon?」が何度聞いても「Bedge pardon?」としか聞き取れず、金之助は彼女を「ベッジ」と呼ぶことにしたのだった。
ベッジはお世辞にも器用とは言えず、使用人としても優秀とは程遠い。
だが留学生活が思うようにいかずに悩む金之助はベッジの前では気楽に話せると喜んだ。
そこで彼女はほくそ笑んで言う。
「それはあんたがあたしをバカにしてるからだよ!」
そして唖然とする金之助に「あたしは物は知らないけどバカじゃないよ」と言い残して行ってしまうのだ。
ベッジの「涙」が語るもの
この芝居を観る者はきっと誰もがベッジを好きになるだろう。
失敗ばかりでも大声で笑い飛ばす彼女を(三谷作品の中の深津絵里は最も滑稽で、最も美しいと私は思っている)。
そんな彼女が唯一涙を見せるシーンが、私のお気に入りだ。
「夢の話はもうよしてください。今の私にはあなたの話を聞くだけの余裕がないんです」。
上手くいかない日々に憔悴しきった金之助は言う。
そして彼女はこう語るのだった、
「あたしはずっと怒られてばかりだった。唯一違うって言われないのは夢の話をする時だけ、だから夢の話をするなって言わないで。あたしには夢しかないから」。
たどたどしい言葉で必死に話すベッジ。
「君は、私だ」
金之助はそう言って彼女を抱き締めた。
この瞬間、観客たちも心の中で金之助と同じことをしただろう。
私もそうだった。
舞台の上にいるのは、「あなた」。
知らず知らずのうちに自らを重ねてしまうのは、ベッジだけではない。
日本で教師として教えていた英語が、イギリスでは伝わらない。
金之助は階下の日本人・畑中惣太郎(大泉洋)が流暢に英語を話し社交的な振る舞いを見せる姿を見ては自己嫌悪に陥り、口数が減るばかりだった。
そしてそんな惣太郎も金之助の隠れたユーモアのセンスに嫉妬し、彼の妻から届いた手紙を隠し続けていた。
また、家主夫婦も些細な擦れ違いを積み重ね、離縁してしまう。
同じ屋根の下に暮らす全ての人間の中に、「あなた」がいるのだ。
とにかくこの劇は、何もかもがリアルだ。
19世紀のイギリスの光と影。
常に付き纏う劣等感。
人の心の汚い部分。
コミカルな芝居の中に散りばめられた(本当は芝居の核である)こういった目を背けたくなるほどの現実が、観る者の心に鈍い痛みを与えていく…
「Bedge pardon?」
結局ベッジは弟の借金を肩代わりするために娼婦となりやがて命を落とすのだが、それを知り絶望する金之助はある日彼女の幻を見る。
幻のベッジは言った。
今度は、あなたが話す番。
「h」を発音しないコックニーを再現するためにベッジのセリフは「h」の音を抜かれていたのだが、この時だけは違った。
それどころかもはやベッジですらなかった。
生きなければならない、と思った。
この21世紀にも影がある。
私にもどうしようもない劣等感が年中無休で付き纏っている。
そして、心に汚い部分を持っている。
それでも、生きることができる。
何かを語ることができる。
我々にはこの幸福を生き尽くす義務があるのだ。
夏目金之助から、夏目漱石へ。そして…
幻から目覚めた金之助はペンを取り、「語り」はじめた。
これが、この芝居のすべてである。
そしてこの物語は、「あなた」へとつながっていく。
今日も彼女は「あなた」に尋ねるだろう。
「Bedge pardon?――聞こえないよ、何言ってるの?」と。