淀殿の大阪城天守閣が英国製ガルバリン砲で攻撃される…大坂冬の陣を簡単にまとめてみた

大坂冬の陣で豊臣家を滅ぼさんと攻め寄せてきた徳川家康。その際、大阪城を落とすために使われたのが、英国製のガルバリン砲でした。これが天守閣に直撃し、城内にいた淀殿の居間を直撃しています。この記事では、そんな大坂冬の陣について簡単にまとめました。ガルバリン砲の説明も載せています。

大坂の陣(冬の陣)で苦戦を強いられる20万の大群・徳川家康。

家康は、20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲した後しばらくは、局地戦を行うに留め、徳川軍は木津川口・今福・鴫野・博労淵などの局地戦で勝利を重ねますが、真田丸の戦いでは前田隊などが、多大な戦死者を出し、命からがら逃げ帰ります。

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とにもかくにも大坂城の南を固めた要塞「真田丸」は鉄壁で徳川家康ですら手が出なかった。。。

豊臣家が滅んだ大阪の陣においては、大砲が活躍したいわれていますが、何キロも離れたところから撃っているため、滅多にあたらなかったという話を聞きました。

そこで質問なのですが、徳川方のその滅多に当たらない大砲は、何発、天守閣などの建築物に命中したのか記録が残っていますか?

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命中したのは2発です。

慶長十九年(1614年)12月16日に、備前島から放たれた砲弾の1発が天守に、もう1発が淀殿の居所である千畳敷に打ち込まれて侍女が亡くなりました。
『豊内記』『當代記』などに記載されています。

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真田丸で苦戦した徳川家康(希代の戦略家)は考えました。

大阪冬の陣は真田信繁の活躍だけではなく、大阪城籠城側の抵抗により徳川軍が考える以上に長期戦の様相を呈してきて家康も他の戦略を考えざるを得ない状況がでてきました。

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戦国時代の生き残りである徳川家康は真田丸での失敗の反省を踏まえ
力で大阪城を攻め落とす戦略を転換します。
まずは大阪城が北寄りに作られていることに目をつけます。
そして…その北側から大砲を打ち始めます。

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大阪城は広大な敷地を有しています。
その広大な敷地を堀と櫓でしっかりと守りが固められた最高の要塞でした。

このため当時の大砲の射程距離にはなっていませんでしたが北側から打てば風向き次第では大砲が届く可能性ありと家康は判断したのかもしれません。

連日の大砲の大阪城への攻撃は大阪城を守る将兵やさらには淀君など大阪側への心理状態をかなり不安なものにしたといわれています。徳川軍が大阪城めがけて打ち込む大砲は特にその音がすざまじかったとといわれています。連日打ち込む徳川軍の砲声は
なんと…京都まで響いたといわれています。

攻勢であった豊臣川に突如訪れた「無慈悲」な砲撃。

そこで家康は、力攻めから心理戦に切り替えます。300門以上という大量の大砲を随所の陣地に配備して、午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒・和製大砲)を大坂城目がけて一斉射撃を開始したのです。
当時の大砲は、約4キロの鉛玉を1.5キロほど飛ばすだけのものでしたが、城内にいる者に与える心理効果は絶大なものがあり、そのうちの一発が、淀殿の居間を直撃します。

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たまたま砲弾のひとつが偶然、淀君の居間を直撃。
数名の待女が犠牲になりました。
ほとんどの砲弾は届かない状況ではあるものの
またいつ砲弾が大阪城に届くかわからない。

少しずつ大阪城内の将兵そして居間を直撃された淀君には不安感が強まったといわれています。
そんななか砲弾がさらに大阪城に打ち込まれます。
少しずつ大阪城内には和平への道が探れないかという空気が広がり始めました。

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