人魚の眠る家

人魚の眠る家のレビュー・評価・感想

人魚の眠る家
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大切な人が「死んでいない」ことを証明できるか?

6歳の娘がプールで溺れ、「おそらく脳死」という状態になってしまったところから物語は始まる。
日本では臓器提供をしない限り脳死判定は行われず、この「おそらく脳死」という曖昧な言葉で、その心臓が止まるまで死を保留にされるのである。
父・播磨とその妻・薫子は、「娘は生きている」と信じて意識のない娘の自宅介護を行うことを決める。

冒頭から「人の死とは何か」という重いテーマが突きつけられるが、ただの感情移入させるだけの作品ではない。
法制度や科学技術に関する情報が織り交ぜられながら物語が進行していく中で、不思議と冷静に思考を巡らせている自分に気がつくこととなる。
これは、あえて視聴者が俯瞰的視点から物語を捉えられるように構成されているからではないかと思う。

例えば、この作品の主人公は父・播磨であるにもかかわらず、画面を占拠する時間は妻・薫子の姿の方が圧倒的に多く感じる。
そして、薫子の登場シーンでは豊かな表情と多くのセリフがあるにも関わらず、心理描写のようなものは意外と少ない。彼女が何を考えているのか、視聴者にはわからない。
これはおそらく、主人公・播磨の視点、あるいは「おそらく脳死」の娘を妄信的に介護する母親を見る世間の視点に、映画の視聴者が強制的に立たされているためだ。
薫子が明るく「見える」場面、逆に暗く狂気じみて「見える」場面、このどちらにおいても薫子本人ではなく「彼女の心情を理解できない俺」の心情を表しているという点が、彼女の特異性を非常に効果的に際立たせている。

最後には伏線もしっかりと回収され、さすが東野圭吾作品、という感想を抱かずにはいられない。