マイノリティ・リポート

マイノリティ・リポート

『マイノリティ・リポート』(原題:Minority Report)とは、2002年に製作されたアメリカのSF映画。原作はフィリップ・K・ディックの短編小説『マイノリティ・リポート』(旧題:『少数報告)』である。日本では2002年12月に公開された。監督はスティーブン・スピルバーグ、主演はトム・クルーズが務めている。物語の舞台となるのは、西暦2054年。ワシントンDCでは、予知能力者が凶悪犯罪を予知するという画期的システムが開発され、犯罪予防局が事前に犯人となるであろう人間を逮捕していた。ある日、犯罪予防局の捜査官ジョン・アンダートンは、36時間以内に殺人事件を起こすと予知され、追われる身となる。

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マイノリティ・リポート
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フィリップ・D・ディックの同名の短編小説を、スティーヴン・スピルバーグ監督が、トム・クルーズ主演で映画化した近未来SFアクション大作

この映画は、抗う術のない運命に翻弄されながらも、その運命に立ち向かう自由意志を、未来人の姿に託して描いた近未来SFアクション大作だと思います。

この「マイノリティ・リポート」は、フィリップ・D・ディックの同名の短編小説を、スティーヴン・スピルバーグ監督が、トム・クルーズ主演で映画化した"近未来SFアクション大作"です。

2054年のワシントンDC。犯罪予防局の主任ジョン・アンダートン(トム・クルーズ)は、アガサ(サマンサ・モートン)ら三人のプリコグ(予知能力者)が得る未来映像で、殺人事件の犯人を事前に逮捕するシステムの推進に精力を注いでいた。

だが、ある日、自分が36時間以内に見知らぬ男を射殺すると告げられ、愕然とする。
そして、司法省のウィットワー(コリン・ファレル)らに追われる中、自らの潔白を証明するべく、その謎に立ち向かっていくのだった----------。

このような身に覚えのない罪で、主人公が追われるというプロットは、アルフレッド・ヒッチコック監督が得意としていたスリラーの手法を踏襲するものであり、スピルバーグ監督自身、「北北西に進路を取れ」や「知りすぎていた男」のような映画を作りたかったと、かつて語ったことがあります。
それを裏付けるように、ヒッチコック映画から引用したのではないかと思われるシーンもあります。

最初の殺人シーンで凶器がハサミであるのは、「ダイヤルMを廻せ!」と同じであるし、傘の中の逃走劇は、「海外特派員」を彷彿とさせます。

ヒッチコック監督は、舞台設定の際、まず、その土地に何があるかを考えたといいます。
この作品では、完全に自動化された自動車工場の生産ラインが、アクションの見せ場に据えられています。
スピルバーグもヒッチコックにならって、未来には何があるかと考えたのかも知れません。

一方で、緊迫した中に挿入されるユーモアなどもヒッチコック的と言えます。
永遠の映画オタク青年スピルバーグは、我々映画ファンを喜ばせることを考えながら、実は誰よりも自分が楽しんで映画を作っているに違いありません。
だからこそ、いい映画ができるのだと思います。

あらためて、スピルバーグは「絵に描いたような未来図」を創造することにかけて、天才的な映画作家であることを証明してみせたのだと思います。

何もこれは悪い意味ではなく、この作品で登場する、どこかで見たような近未来をスピルバーグのイマジネーションの枯渇とみなすのは早計で、そもそも、スピルバーグのSF映画の魅力というのは、「誰もが夢見るような未来社会」を決して手の届かないものではないということを示してくれた点にあったような気がします。

ただ、人間が作った未来社会に功罪があるとするならば、それまでは、その功を抽出してきたのに対し、この作品で、彼は罪の部分と本格的に向き合っているのだと思います。
そこに、かつてのスピルバーグ映画との違いがあるといえば言えると思います。

この映画で描かれる近未来では、人間は指紋ではなく、「瞳」によって管理されています。
地下鉄から乗り降りする者、商店街を横行する者、会社へ出入りする者など-------。

便利さの裏に潜んだ監視者の影には、ゾッとさせられます。
このように未来は、ますますプライバシーが喪失された社会になっているという事を考えると、戦慄せざるを得ません。

そこで、犯罪予防局が編み出したシステムです。
妻の浮気に逆上して殺意を持った夫が、容赦なく逮捕されてしまうオープニングのエピソード。

このエピソードの挿入は、単純な事例をもって凶悪犯罪を事前に察知するシステムの有様を見せるだけが目的ではありません。
このシステムが抱える"不条理"を、いきなりたきつけるものなのです。

数時間後に殺人を犯すから、その前に身柄を拘束するなどということが、法律学的にも人道的にも許されるのでしょうか。
考えただけでも背筋が凍るような社会です。

ドラマは二段階構造になっており、ジョン・アンダートンが、本当に殺人を犯すのかを解明するまでが第一部で、第二部ではプリコグ(予知能力者)の欠陥に秘められた陰謀に迫っていきます。

果たしてこのプリコグの欠陥とは何か。
三人のプリコグの間で予知映像が2対1に分かれた場合、一人だけが見た予知映像は、「マイノリティ・リポート(少数報告)」として棄却されてしまいます。

つまり、棄却された方が、真実の未来であったとしたら、冤罪で逮捕された人間が存在することになるのです。
かくして、タイトルの持つ意味が明らかになってから、俄然ストーリーが重みを増してくるのです。

我々の想像を遥かに上回るスピードで発達するIT社会。
ところが、その発展が勢いを維持するのは、バグが許される範疇までであり、微塵のバグも許されない領域に踏み入った時、間違いなく壁にぶつかってしまうと思います。

人間が作ったシステムに完全はあり得ません。しかし、人権や人命を扱うシステムに亀裂は絶対に許されないのです。

システムに支配された社会の落とし穴を描き出したこの作品の、未来に対するビジョンは至極明快です。
スピルバーグ監督が、こうした領域に深く踏み込んでいった背景には、スタンリー・キューブリック監督との交流や「A.I.」の製作も、何らかの影響を及ぼしているのかも知れません。
優れたSFとは、とりもなおさず優れた社会派ドラマなのです。

それにしても、各界のシンク・タンクを一室に集めて、半世紀後の未来がどうなるかを討論させ、それを映画に反映させるというアイディアは実に面白い。

だが、もっと斬新なのは、商品広告をストーリー展開に直接組み込むという試みだ。
この映画には、現在、急速な発展を遂げつつあるインターネット広告の進化形として、どこまでもネットワーク化された未来のCMがお目見えする。

取り上げられたブランドは、トヨタの高級車レクサス、ペプシ、リーボック、ギネス・ビール、アメリカン・エキスプレス、カジュアル・ウェアのGAPなどだ。
中には、このCMのためにお金を払った企業もあると言われています。おまけに、全社が広告製作に関する主導権を映画会社側に明け渡したそうです。

こうした手法は一見、未来の映画製作の道標を示しているように映りますが、実際はそんなに簡単なものではないと思います。
全ては"スピルバーグ"というネーム・バリュー、何よりその手腕に対する信頼性があってこそのことだろうと思います。

この作品は「フューチャー・ノワール」として表現されたりしますが、その呼ばれ方通り、「フィルム・ノワール」ファンには非常に興味深い内容になっていると思います。
まず、未来社会にフィルム・ノワールの伝統を持ち込むべく、あらゆるシーンが青みがかったグレーの色調、金属質のざらついた質感、コントラストの強い絵で統一されています。

そして、フィルム・ノワールの最大の特徴は、抗う術のない運命に翻弄され、犯罪に手を染めていく人間の暗い側面を描いている点にありますが、この映画はそのような運命に立ち向かう自由意志を、未来人の姿に託しているのだと思います。
スピルバーグ監督の真髄、ここに見たり!! です。