日常に潜む『ジョジョリオン』
・『ジョジョリオン』は私たちの中にも起こっているのではないか?
何が幸せで何が不幸せかと捉えるのかはそれぞれいろんな物差しがあるかとは思うが、どこか普遍的な指標があるのかもしれない。そしてその天秤とも言える量るモノは載せるモノの質などで場合によっては抑止力とも言える試練を産み出すのかも知れない。
キリストは生まれて奇跡を起こして、歩いて世界の呪いを背負い死んでその後も人々の中で善き何かとしてか誰かの中で悪しき何かとしてか分からないが、今日もどの様な形ででも生き続けている。
呪いを押し付けて祝福を貰い受けるアイテムである聖なる遺体や新ロカカカの実などは、私たちの日々の生活の中で日々日々生まれる力を誇大的に具現化した象徴であり、大なり小なり異なる形で私たちの私生活のほんの小さな片隅にでもコロコロ転がっているようなものかもしれない。その大いなる小さな奇跡の一つ一つをどのように運用・行使していくのかは知的生命体で自由度の高い人類であったり岩人間にであったりへと手綱が握られている。
・ジョジョ世界の雌雄を別つのは?
「世界全体にとって善き祝福をもたらすか、悪しき祝福をもたらすか」「善き呪いを遺すのか、悪しき呪いを遺すのか」ではないだろうか。
今回は普段秘密裏に動いていているものの、たまたま主人公たちに見つかり関わることになってしまい結果的に成敗されてしまって、私欲を満たし不幸を振り撒く行いをする予定が、それを断たれてしまった岩人間たちだった。だが、そういった他者を巻き込んだ邪悪から産まれた表在化しない善くない呪いや悪しき曰く付きの祝福の連鎖は、今も世界を巡っていて日常の傍らで私たちはその見えない何かに無意識にでも怯えてたり抵抗していたりするのかも知れない。
・呪いや祝福を利用しようとする、乗り越えようとするのはしんどい
呪いの根源や祝福の原始を明らかにしようと手繰り寄せるのはパワーを使うし、それらをなんとかしようとするのも力を使う。そのしんどい部分を8部のラストではラスボス打倒に功労賞を納めた花都を始めとした憲助であったり常敏であったり、その他多くの者たちが悪いモノを受け留めて負い被って去ってしまった。杜王町にきた野心を抱いた岩人間たちもことごとく運命に抗えなくて散って逝った。
今回は呪いと祝福の押し付け合いという戦いが人間(東方家)VS岩人間という分かりやすい構図で繰り広げたが、私たちの日々の生活も面と向かって誰かと戦っているわけではないが、服を着て社会にて生活を営むにせよ、食事をするにせよ、安心な住居でくつろぐにせよ、誰かしらの何かの恩恵を受けて日々を過ごしている。
そのような流れの中でいろんなモノやコトの積み重ねで今日を生きる東方家やあるいは現実世界の私たち。どこかの誰かの遺した何かによって、今日も何かを意識してようがしてまいが生き続けて、次の世代へ次の世代へと何かを継承して在り続ける。世界はそれを許しているのだろうか。岩人間たちや東方家の様になにかしらの制裁を受ける日が来るのだろうか。
でも心配しすぎるとどこかのボスたちの様に安心を求めて超越者を目指すようになってしまうかもしれない。小さな心の綻びが死に至る病=精神的な疾患や絶望を湧き起たせてしまい厄災へと姿を変えてそれが誰かへ呪いを振りまく源となってしまうのかも。ほどほどの滾りで押し留めるバランス感覚が欲しいところ。でも平和になると奇妙な冒険が生まれない可能性もあるため、なんとも難しい。ベストを探し目指していくことこそ「真実に向かおうとする意志」、その都度の落ち処探しの旅。
・日常に潜む『ジョジョリオン』私たちの奇妙な冒険譚
まとめると、私たちの普段の日常生活の中に無限大に限り無く小さくコロコロ転がる幸不幸をクローズアップして奇妙に彩った作品が『ジョジョリオン』であり、その奇妙さの延長に私たちもいると、この作品は語り掛けてくるのでは無いだろうか。
『ジョジョ』という名の呪いとも祝福とも取れる代物を、どう扱って何事かを成していくのか。未来は受け継がれる読者たち自身の手の中で回転し続けている。