「かぶき者」前田利家(犬千代)は豊臣政権の五大老の1人!生涯まとめ

前田利家(まえだとしいえ)といえば、加賀藩の戦国武将として有名な人物ですよね。彼は後に豊臣政権の五大老の1人にまで登り詰めるのですが、若かりし頃は「かぶき者」として人とはちょっと違った人生を歩んでいたようです。この記事では、そんな利家の生涯についてまとめました。

前田利家とは

天文7年(1538年)、尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)において、その地を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれる。幼名は犬千代。

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天文20年(1551年)に織田信長に小姓として仕える。若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であった

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前田利家(前田犬千代)

初陣の図

翌天文21年(1552年)に尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)の清洲城主・織田信友と信長の間に起こった萱津の戦いで初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てる(村井重頼覚書)。

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前田利家

槍の又左といわれていた

元服して前田又左衞門利家と名乗った(又四郎、孫四郎とも)。
この頃、信長とは衆道(同性愛)の関係にあったことが加賀藩の資料『亜相公御夜話』に、「鶴の汁の話(信長に若い頃は愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残されている。

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青年時代の利家は血気盛んで槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれていた。だが、その血気が仇となり苦難の日々を送ったのも、この頃であった。
弘治2年(1556年)、信長と、その弟の織田信勝による織田家の家督争いである稲生の戦いでは、宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績を上げる。永禄元年(1558年)、尾張上四郡を支配していた守護代岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功積を挙げた。

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永禄初年頃に新設された赤と黒の母衣衆(信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊。)の赤母衣衆筆頭に抜擢され多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受ける。同年、従妹であるまつ(芳春院)を室に迎えた翌年の永禄2年(1559年)、信長の異母弟で同朋衆の拾阿弥と諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔。当初、この罪での成敗は避けられなかったが、柴田勝家や森可成らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする

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永禄3年(1560年)、出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。翌永禄4年(1561年)、森部の戦いでも無断参戦する。ここで斎藤家重臣・日比野下野守の家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる豪傑を討ち取る功績を挙げた。この時、足立以外にも首級1つを挙げている。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫の加増を受けて、ようやく帰参を許された

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元亀元年(1570年)4月には浅井氏・朝倉氏との金ヶ崎の戦いでは撤退する信長の警護を担当し、6月の姉川の戦いでは浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げる。同年9月には石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いで春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒す功績を上げる。天正元年(1573年)9月の一乗谷城の戦い、同2年(1574年)7月の長島一向一揆、同3年(1575年)5月の長篠の戦いなどでは佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政らと共に鉄砲奉行としての参戦が確認されている。

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天正2年(1574年)には柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従事した。

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佐々成政・不破光治とともに府中10万石を与えられ(三人相知で、3万3千石が個別に与えられたわけではない[要検証 – ノート])、「府中三人衆」と呼ばれるようになる。越前国平定後は、勝家与力として成政らと共に上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事するが、信長の命により摂津有岡城攻め(有岡城の戦い)、播磨三木城攻め(三木合戦)にも参加しており、信長の直参的役割は続いていたものと思われる。

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天正9年(1581年)、織田信長より能登一国を与えられ、七尾城主となり23万石を領有する大名となった。旧加賀藩領(石川県・富山県)では、この時点で「加賀藩」が成立したと解釈され、利家は初代藩主とされている(しかし、近年では徳川氏へ従属した利長を「初代加賀藩主」とする解釈もなされている)。翌年、難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を廃城、港を臨む小山を縄張りして小丸山城を築城した

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前田利家

加賀藩の設立

天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれた時、利家は柴田勝家に従い、上杉景勝軍の籠る越中魚津城を攻略中であり、山崎の戦いに加わることができなかった。

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天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでは、利家は5,000ほどを率いて柴田軍として布陣したが、合戦のたけなわで突然撤退し、羽柴軍の勝利を決定づけた。利家は越前府中城(現福井県武生市)に籠るが、敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄ってこれまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したという逸話が残る(『賤岳合戦記』)。その後、府中城に使者として入った堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(のちの金沢城)に移した。

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天正12年(1584年)の秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した小牧・長久手の戦いでは、佐々成政が家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻したが、末森城で成政を撃破した(末森城の戦い)。

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末森城の戦いに勝った利家は、続いて加賀越中国境の荒山・勝山砦を攻略、越中国へも攻め込んだ(奥村氏文書)。9月19日、利家は秀吉より一連の戦いの勝利を賀されている(前田育徳会文書・温故足徴)。
成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝に誘いの手を伸ばしたりしている。また、兵を派遣して越中国を攻撃した。

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前田利家

天正12年(1584年)8月、利家が先導役を果たし秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと佐々成政は降伏(富山の役)し、利家の嫡子・前田利長が越中国の4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。同年4月に、越前国の国主である丹羽長秀が没し丹羽家は国替えとなり、それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上った。
秀吉は関白に任官し、9月に秀吉が豊臣姓を賜ると天正14年(1585年)に利家に羽柴氏(名字)を名乗らせ筑前守・左近衛権少将に任官させている。天正16年(1588年)には秀吉から豊臣姓(本姓)をも下賜された。 天正18年(1590年)1月21日には参議に任じられる。また、秀吉が主催した北野大茶会や後陽成天皇の聚楽第行幸にも陪席する。
北条氏制圧のための小田原征伐では北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入り、北条氏の北端要所の松井田城を攻略、他の諸城も次々と攻略した。続いて武蔵国に入り、鉢形城・八王子城を陥す。7月5日、北条氏は降伏。陸奥国の伊達政宗もこの時すでに小田原に出向いて降参していたが、彼に対する尋問は利家らが行ったという。

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国内を統一した後の秀吉は唐入り(高麗御陣)、すなわち朝鮮出兵を始める。
天正19年(1591年)8月、秀吉より出兵の命が出され、名護屋城の築城が始められた。翌文禄元年(1592年)3月16日に利家は諸将に先んじて京を出陣、名護屋に向かった(言経卿記)。従う兵は8,000というが、嫡子の利長は京に停められている。初め秀吉は自ら渡海する意思を持っていたが、利家は徳川家康と共にその非なるを説き、思い止まらせた。

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慶長3年(1598年)になると秀吉と共に利家も健康の衰えを見せ始めるようになる。3月15日に醍醐の花見に妻のまつと陪席すると、4月20日に嫡子・利長に家督を譲り隠居、湯治のため草津に赴いた。この時、隠居料として加賀石川郡・河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡にて計1万5千石を与えられている(加賀藩歴譜)。しかし、実質的には隠居は許されず、草津より戻った利家は、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より大老の一人に命じられる。しかも家康と並ぶ大老の上首の地位であった。そして8月18日、秀吉は、利家らに嫡子である豊臣秀頼の将来を繰り返し頼み没する。

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慶長4年元旦(1599年)、諸大名は伏見に出頭し、新主秀頼に年賀の礼を行った。利家は病中ながらも傳役として無理をおし出席、秀頼を抱いて着席した。そして10日、秀吉の遺言通り、家康が伏見城に利家が秀頼に扈従し大坂城に入る。以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる。

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