映画の伝道師 淀川長治さんを知っていますか?
ひたすらストイックに「映画」だけを追い続けた89年の生涯。筆者にとっても特別な存在であった淀川長治さんの人生を今改めて見て行こうと思います。
思わぬ所で淀川さんと再会して
複雑な生い立ちと映画漬けの少年時代
映画にまだ音声がついていなかった「サイレント映画」の時代から、両親や姉達とともに映画館(当時は「小屋」とも呼ばれていた)に入り浸り、気がつけば毎日が映画一色だったといいます。
神戸の芸者置屋で生まれた淀川さんの生い立ちは複雑で、それが彼の結婚観や女性観に影を落としたとも言われています。
「ずっと映画とともに生きたい。そのためにはその他のすべてのことを犠牲にしてもいい」と神社で願掛けをしたというエピソードには、映画にかける情熱の凄まじさを感じさせられます。
映画配給会社時代とチャップリンとの出会い
学生時代にずっと映画の感想を投稿していた『映画世界』(南部圭之助編集長)で、編集者として活動した後、しばらく神戸に戻り姉が経営する輸入美術品店で勤務。
しかし映画に対する情熱が冷めるはずもなく、1933年(昭和8年)にユナイテッド・アーティスツの大阪支社に入社します。
「駅馬車」との出会い
終戦後〜映画解説・評論家としての道へ
終戦後、淀川さんはアメリカ映画の配給会社「セントラル映画社」に勤務します。
その後1947年(昭和22年)には、「映画の友」に入社。
翌年には映画好きな若者達を集め「東京映画友の会」を結成します。ここで淀川さんは1993年(平成5年)まで映画の魅力について語り続けました。
「日曜洋画劇場」の顔となって
淀川さんの3つのモットー
「他人歓迎」
「苦労来い!」
「私はいまだかつて嫌いな人に会った事がない。」
この3つは淀川さんのよく知られたモットーです。
しかし実際はかなり人の好き嫌いが激しかったことを晩年、お弟子さんたちに打ち明けられています。そのあたりのことは、TVでの作品解説の時の口当たりの柔らかさと対照的に、映画好きだけが集まる場での、とても厳しい映画批評ぶりを考えればそう不思議ではないなぁと個人的には感じます。それが却ってとても人間的に感じるのは、私が単に淀川さんのファンだったからかもしれませんが。
最後に 淀川さんにまつわる個人的な思い出
講演会の後、購入した本の見開きにサインをしていただきましたが、淀川さんはしっかりと私の目を見て「来てくれてありがとう」と言って下さいました。
その目の輝きがまるで若者のようだったこと、握手した時の手の柔らかさは、未だに忘れられません。
映画が大好きだった私にとって淀川さんは神様のような存在でした。
その人と握手ができたこと、そしてちょっとだけでも言葉を交わせた思い出は、今でも私の大切な宝物です。