海外で最も有名な日本人の一人 オノ・ヨーコとアート
一般には、ジョン・レノンのパートナーだった女性として有名なオノ・ヨーコ。海外では、坂本龍一らと並び、最も有名な日本人のひとりである彼女ですが、実は前衛アーティストとして1950年代から活躍してきました。
東京都現代美術館で、個展「オノ・ヨーコ 私の窓から」が開催されているのを記念して、彼女の半生と作品に迫ります。
オノ・ヨーコ プロフィール
オノ・ヨーコ(Yoko Ono, 本名:ヨーコ・オノ・レノン、Yoko Ono Lennon, 日本名:小野 洋子、1933年2月18日 - )は日本生まれのアメリカの芸術家、音楽家。ビートルズのジョン・レノンと結婚、レノンとの数々の共作でも知られている。
1953年、20歳のとき、学習院大学からアメリカのサラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ぶ。1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活動を開始。1966年、活動の拠点をイギリス、ロンドンに移す。同年11月に個展を開催、その会場でジョン・レノンと出会い、1969年結婚。1960年代後半から1970年代にかけて、レノンとともに数々の創作活動や平和運動を行なう。レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、世界各地で個展を行なうほか、ダンス/クラブ・プレイの分野ではビルボード・チャート1位に12曲を送り込み、この分野で最も活躍しているアーティストの1人である。1981年グラミー賞にてアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞、2009年6月、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。ニューヨーク在住。
出典: ja.wikipedia.org
個展「オノ・ヨーコ 私の窓から」
展覧会|東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO
www.mot-art-museum.jp
オノ・ヨーコ|私の窓から
60年にわたり多彩な分野で異なるものを繋ぎ、新たな回路を作ってきたオノ・ヨーコ(1933年-)。本展は、これまで主に戦後アメリカ美術のなかで語られてきたオノの活動を、出身地である東京という都市の文脈で再考するものです。作家活動を開始するまでの関連資料や創作、1950-70年代の東京での活動、近年の作品を通して、近代と現代、欧州と日本と米国、美術と音楽と文学、前衛とポピュラーカルチャー、そして社会と個人を繋ぐ独創的な創造活動を紹介します。
オノは独自の詩のあり方を核とする、コンセプチュアル・アートの先駆者として、社会のシリアスな課題を、ユーモアに溢れたアプローチで多くの人に向けて発信してきました。本展は、戦前に既に充分に国際化していた東京を起点に育まれたその軌跡を、今日的視点から辿る絶好の機会となるでしょう。
展覧会の見どころ
■1930年代、オノは自由学園で音楽教育を受けました。そこでは時計の音など生活のなかで触れる音をもとに作曲するなど、芸術と生活を線引きすることのない考え方に接しました。それは、1950 -60年代の米国の音楽動向に触れる遥か前のことでした。本展ではアーティストとしての活動を開始するまでのオノを育んだものや初期の活動を紹介します。
■オノの代表作でありコンセプチュアル・アートの歴史の中でも重要な本『グレープフルーツ』は、1964年の夏、2年半の東京滞在の集大成として発行されました。本展では、葉書に記されたその膨大なタイプ原稿や、1962年の草月ホールで展示された指示絵画を複製絵媒体に変換し、コンセプチュアルな性格を進めたものなど、日本初公開の作品を紹介します。もちろんそのオリジナルの手書きの指示絵画や当館蔵の『グレープフルーツ』初版本もあわせて展示することで、音楽における楽譜のように、簡潔な言葉によって、鑑賞者の想像や行為を喚起する新しい美術のあり方が、東京で展開した過程があきらかになるでしょう。
■東京では日比谷野外音楽堂が会場となった1969年暮の「WAR IS OVER!」のジョン・レノンとのキャンペーンの企画や、環境をテーマに掲げた1974年の「One Step Festival」(郡山)への参加など、オノは1960年代から社会の課題に向き合い、広告媒体を用いたコンセプチュアル・アートとして発表するだけでなく、野外コンサートやレコードなど、ポピュラーミュージックの方法で、広くメッセージを発信してきました。また近年は、様々なところで起きた暴力を主題とする美術作品や曲を制作しています。それらは、オノ自身の個人的な体験と、多くのひとの記憶とが交差するものとなっています。
オノ・ヨーコ(@dream_power)さん Twitter
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オノ・ヨーコ (@dream_power)さんの最新ツイート 私は踊るのが大好きです。人生を行進しながら進むより、踊るほうがよいと思います。 私への興味深い質問を #dearyoko とハッシュタグをつけて、つぶやいてください。 ツイッターでお返事します。投稿前にこのHPを必ずご覧ください→ http://t.co/jholQ1K0fV ヌートピア
元大財閥のお嬢さまがアメリカに渡り前衛芸術家へ。
オノ・ヨーコ(小野洋子)は、戦前の安田財閥の血を引くれっきとしたお嬢さま。大学も学習院という格式高いところを出て、家族とともに渡米。そこで詩と音楽を学び、1960年頃に前衛芸術家として活動を始めました。
この時代に日本の女性がアーティストとして活動することは、大変なことだったと思います。
実際オノさんが1962年に東京の草月会館でイベントを開いた時には、男性たちから大変な批判を浴びたということです。
また、彼女が日本人(黄色人種)であったことから、アメリカではレイシズム(人種差別)にも直面。
その後ジョン・レノンと運命的な出会いをして彼と結婚した時も、そしてビートルズが解散した時も、「レノンをたぶらかし、ビートルズを解散させた元凶は、日本から来た魔女・オノ・ヨーコだ」という非難が浴びせられました。
ジョンとの出会い。
ジョン・レノンとの出会いは、1966年11月9日のことであった。ロンドンのインディカ・ギャラリーでのオノの個展『未完成の絵画とオブジェ』("Unfinished Paintings and Objects")の開催前日のプレビュー・ショーに訪れたレノンは、そこに展示されていた作品「天井の絵」("Ceiling Painting (YES Painting)")に惹かれた。それは部屋の中央に白い脚立が置かれており、観客はそれを昇り天井からぶら下がった虫眼鏡を使って、天井に貼られたキャンバスの小さな文字を見るという作品だった[2]。レノンは当時を回想し「もし"No"とか『インチキ』みたいな意地の悪い言葉が書かれていたら、すぐに画廊を出て行ったよ。でも"YES"だったから僕は『これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせてくれる初めての美術展だ』と思ったんだ」と後に語っている
出典: ja.wikipedia.org
ジョンが1980年、熱狂的なファンに射殺された後しばらくはオノさんも精神的ショックが大きく苦しい時期が続いたそうですが、本来のバイタリティはその苦しみを乗り越えさせ、現在でもアーティストとして現役で活動されています。
2015年11月19日の読売新聞「文化欄」で「私は(欧米で)レイシズム(人種差別主義)に遭いましたが、いまはエイジズム(年齢差別)も感じる。経験者の話も聞かないのは損。例えば美術家も普通は作品に触られたくないし、私も昔はそういう気持ちだった。でも、ある時から(触れられて)介入されるのが面白いと思った。結局、老人も子供も自由に入れる作品を作るようになりました。」とインタビューに答えられています。
ジョンとヨーコの血をひく息子ショーンとジョンの前妻シンシアとの息子ジュリアン
最後に
お恥ずかしい話ですが、その昔私もマスコミが煽るまま「ビートルズを解散させたのはオノヨーコだ」と思い込んでいた頃がありました。
でも実はビートルズの解散の原因は彼女ひとりが引き起こせるほど単純なものではなかったことが次第に理解できるようになり、いまではオノさんは素晴らしいアーティストだと思っています。