大賀弥四郎は徳川家康を裏切ったの?生涯を簡単にまとめてみた
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大賀弥四郎(おおがやしろう)は、徳川家康の家臣として知られる人物です。家臣ということは味方のはずなのですが、家康を裏切って別の人物と内通していたという説が一部で出ているそう。最期はグロすぎる刑に処せられたという話もあるようです。詳しいことはあまり明らかになっていない人物ですが、ひとまずわかる範囲で弥四郎の生涯をまとめてみました。
大賀 弥四郎とは
大賀 弥四郎(おおが やしろう、生年未詳 - 天正2年(1574年)?)は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。姓は正しくは大岡氏であったとする説もある
出典: www.weblio.jp
『徳川実記』によると、初めは徳川家康の中間だったが、算術に長じていたため会計租税の職に試用された後、三河国奥郡20余郷の代官に抜擢された。
出典: ja.wikipedia.org
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徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川家康)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。
普段は家康の居する浜松にありながら、ときどき岡崎にいる嫡男・松平信康の用も務めるようになり、両者の信任を得て権勢並びなき者となり増長した。
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松平信康
松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。
家康の家臣・近藤某が領地を加増されたとき、弥四郎が自分のとりなしによるものだと放言したため、近藤は弥四郎に追従してまで加増されたくはないと返上を申し出でた。このことがきっかけで、家康が弥四郎の日頃の悪行を耳にすることになり、弥四郎は家康の命で捕らわれて家財を没収された。
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弥四郎が小谷甚左衛門・倉知平左衛門・山田八蔵と共謀し、岡崎城を乗っ取って武田勝頼を手引きすることを書いた、武田方への書簡が発見された。山田八蔵も変心して信康に訴え出たため、弥四郎は馬に乗せられて浜松城下を引き回され、妻子5人がはりつけにされたのを見せられた後、岡崎で土に埋められ首を通行人に竹鋸で引かれ、7日後に死亡した。
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近年ではこの事件を天正3年(1575年)の出来事とし、同年5月21日に発生した長篠の戦いの原因となった武田勝頼の三河侵攻は弥四郎との通謀の上で行われたとする説もある。
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大河ドラマや小説では
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瀬名(築山殿)
築山殿(つきやまどの、生年不詳 - 天正7年8月29日(1579年9月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。徳川家康の正室。名は未詳。一般的には築山殿、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)ともいわれる。「築山」の由来は岡崎市の地名である。
父は関口親永。
母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると井伊直平の孫娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという。その場合だと井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たる。
山岡荘八の『徳川家康』などのフィクションでは、築山殿とも共謀して武田勝頼に内通していたように描かれているものもあるが、史料の裏づけはない。
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鋸引きの刑とは
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鋸引きの刑
鋸挽き(のこぎりびき)は、死刑の一で、罪人の体を鋸で挽く刑罰である。中世および近世の日本で行われた。また、ヨーロッパや中国(『五車韻瑞』、『塵添壒嚢鈔』11、また『北斉書』文宣皇帝本紀(穆嵩)と薛嬪伝(薛嬪の姉))でも行なわれた。
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縛り付けた罪人の首に浅く傷をつけ、その血をつけた鋸を近くに置いて、被害者親族や通行人に一回か二回ずつ挽かせ、ゆっくりと死なせる刑罰であり、江戸時代より以前には実際に首を鋸で挽かせていた。 さらには罪人を逆さに固定し、股から逆に身体を挽くことでさらに苦痛を長引かせることもあった。
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参考リンク
大賀弥四郎 - Wikipedia
ja.m.wikipedia.org
大賀 弥四郎(おおが やしろう、生年未詳 - 天正2年(1574年)?)は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。姓は正しくは大岡氏であったとする説もある [1]。
徳川家康 (NHK大河ドラマ) - Wikipedia
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粂:左時枝(大賀弥四郎 の妻) おふう:石井めぐみ 阿紀:深水真紀子 小侍従:二木てるみ(徳姫の侍女) 須賀:小川より子(松平広忠の侍女) 百合:立枝歩(於大の侍女 ) 小笹:棚橋久美(於大の侍女) 岡崎城台所の女: : ...
NHKオンデマンド | 大河ドラマ 徳川家康 第18回 謀叛発覚
www.nhk-ondemand.jp
家康は織田の大軍を見せて武田の動きを抑えようと考えたのです。岡崎では築山御前と大賀弥四郎らの陰謀が発覚します。徳姫から真相を聞いた信康は、逆上して姫の小侍従を手討ちにします。家康は大賀を処刑しますが、築山御前は ...
大賀弥四郎 : definition of 大賀弥四郎 and synonyms of 大賀 ...
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大賀 弥四郎(おおが やしろう)は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。 生涯 徳川家譜代の家臣で、三河国奥郡20余郷の代官を務めていた。政務を得意としていたため、徳川家康に信任されて嫡男・松平信康付とされた上、奉行の要職を ...
「徳川家康、大賀弥四郎を処刑」 ~4月5日の出来事~|歴史ブログ
ameblo.jp
大賀弥四郎は 徳川家に長く中間として 仕えていましたが、 なかなかの才覚者で計算に明るく、 また地方の事にも通じていました。諸事そつなくこなした事から 次第に重用され、 やがては三河・奥郡二十余ヶ村の 代官に任命されます。
大賀弥四郎 - 大賀弥四郎の概要 - Weblio辞書
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大賀弥四郎 大賀弥四郎の概要 生涯『徳川実記』によると、初めは徳川家康の中間だったが、算術に長じていたため会計租税の職に試用された後、三河国奥郡20余郷の代官に抜擢された。普段は家康の居する浜松にありながら、ときどき ...
岡崎城 大賀弥四郎謀反 - 家康の足跡 IN 東海 - Yahoo!ブログ
blogs.yahoo.co.jp
岡崎城 大賀弥四郎謀反 家康は生涯を通じ大きな裏切りに2度会っている。一度は天正2年(1574)岡崎城で大賀弥四郎の謀反に会い、もう一度は慶長18年(1613)江戸幕府を開いてから大久保長安の謀反というより金山 ...