長宗我部元親は明智光秀や織田信長とどんな関係だった?本能寺の変はなぜ起こったの?

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)といえば、四国統一を果たした戦国武将として知られていますよね。実は彼、明智光秀や織田信長と浅からぬ因縁があります。一体彼らとどんな関係なのか、この記事で簡単にまとめました。本能寺の変が起こった理由についてもまとめているので、併せてご覧いただければと。

戦国時代に土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が四国の領土を巡り、本能寺の変の前に織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が23日、発表した。

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県立博物館などによると、信長は当初、元親と友好関係を築き、その四国征服を容認。元親の正室は利三の縁戚にあたるため、光秀が元親との取次(とりつぎ)役(外交官)を担っていたが、その後、四国統一に向け急速に勢力を広げる元親を警戒した信長が政策を変更。変(6月2日)の前、土佐と、阿波の南半分のみの領有を認めると命じられたことに、元親が激怒。光秀は信長と元親の間で板挟み状態になったとされる。

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明智光秀は重臣の斎藤利三が四国の戦国大名、長宗我部元親と親戚関係にあったことから、利三を通じて交渉を進めていましたが、信長が一転して四国攻めに乗り出したことから反旗を翻したとするものです。

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明智光秀は、主君の織田信長と長宗我部氏との間を取り持つ役割を果たしていた。その実務を担った斉藤利三と石谷頼辰は、頻繁に長宗我部元親や石谷光政と情報を交換していたと考えられるが、相互に婚姻によって結ばれた関係にあった。
一般財団法人・林原美術館のプレスリリースより

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明智光秀とは

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戦国大名・織田信長の重臣の一人で、日本史の謎の一つとされる本能寺の変を起こした事で有名である。
本姓は源氏で、のちに朝廷より惟任の姓を賜る。家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。惟任光秀とも。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。

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長宗我部元親とは

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。位階は従五位下で死後に正五位[4]、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国の覇者となる。しかし、その後織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時戸次川の戦いで最愛の息子・信親を亡くすと性格は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去る。

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本能寺の変とは

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明智光秀による織田信長に対する謀反である。

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、1582年6月21日(天正10年6月2日)、備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようとしていた織田信長に対して、先発させた家臣明智光秀が謀反を起こして丹波亀山城から引き返し、京都の本能寺に宿泊していた信長と妙覚寺に宿泊していた当主の織田信忠を襲撃したクーデター(事変)である。寝込みを襲われて包囲された信長は脱出を諦めて自害を迫られ、信忠は二条御所に退いて戦ったがやはり自害した。

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