田中角栄の邸宅に関する都市伝説!目黒の家から3回曲がるだけで新潟実家に辿り着くのか検証!
第64、65代内閣総理大臣を務めた田中角栄元首相の邸宅に関する都市伝説をまとめました。目黒の邸宅から新潟にある実家まで、たった3回曲がるだけで到着するというものです。ここでは田中角栄の経歴を交えつつ、噂を検証してみました。
田中角栄とは
田中角栄(たなか かくえい, 1918年~1993年)とは、日本の政治家であり、第64代・65代内閣総理大臣である。娘の田中真紀子も同じく政治家の道を歩んだ
田中は新潟県旧二田村(現・柏崎市)の貧しい農家に生まれた。小学生時代の通信簿は全て「甲」(当時は「甲>乙>丙>丁」の順に成績が良かった。)だったが家計の都合で、大学はおろか高校も進めず、苦労した人だった。とにかく勉強第一とし、英和辞典を片っ端から暗記した。覚えたページは食べていたという伝説もある。また、政治家になって忙しくなってからも、1日4時間の政治学、経済学などの勉強は欠かさなかった。
ロッキーロード事件
「ロッキーロード事件」といえばピンとくる人も多いのではないだろうか。この事件は、1976年7月、国内航空大手の全日空の旅客機導入選定に絡み、田中角栄前首相(当時)は、1976年7月27日に約5億円の受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕されたというもの。
1983年、東京地裁は田中に懲役4年、追徴金5億円の判決を命じたが田中はこれを不服として告訴。この判決で国会はぐだぐだになり、後に「田中判決解散」と呼ばれる衆院解散の引き金となった。
田中は逮捕後も自民党を離党しつつ、地元の支援を受けながら無所属で活動を続けた。
当時のマスコミは角栄の記事を書けば書くほど、売り上げが伸びる為、こぞって角栄を非難する記事を書き続けた。角栄は自分の評判を非常に気にする性格であった為、新聞・テレビは無論、週刊誌等にも目を通し、それらの記事を見る度に心を痛め、記者を呼びつけ批判記事を書くなと要求する事は日常茶飯事だったそう。
また、当時の検察の捜査でも「金額の受け渡し場所」「米国務長官の発言内容」などで不自然な点があり、実は陰謀論ではなかったか、とする「角栄無罪論」が今でも語られており、真相は闇の中である。
田中角栄元首相に関する都市伝説
目白の田中邸から3回曲がれば新潟に着く
いわゆる「角栄道路」といわれるのは角栄の地元だけ。里帰りのために作ったとも噂されている。
新潟バイパス、新新バイパスも当時は「角栄バイパス」と言われていた。角栄は新潟市を日本海側の首都にしたかったようだ。「家を出るとすぐ国道があるので日々田中角栄さんに感謝している」という声も。
自分の便宜を計って高速を引いたのは本当みたい。
ついに検証する人が登場
東京を出発
ついに都市伝説を検証する人が登場した。東京から新潟へ行く用事があったので実走して、確かめることにしたとのこと。
午前7時にレンタカーで角栄邸の前から出発。相続税のために物納され、通り沿いに延々と続く塀はもはやない。石造りの塀と鉄門扉がビルと公園の間にかろうじて通りに面している。「田中」と記された表札がなければ、そこがかつての角栄邸だとは気づかないだろう。
6キロ走ったところ、豊島区の南長崎一丁目の交差点で右折。通りは目白通りのままだ。出発から30分ほどで関越道の練馬インターチェンジにさしかかった。目白通りの3車線のうち2車線が高速へつながっていて、そのまま高速に入った。
北陸道へ入り、10キロあまりで西山の出口にさしかかった。高速を出ると、目の前には田んぼがあり背後が山になっている、いかにも米所といった田舎の風景が広がっていた。
新潟までは1回の右折のみ
出口を右折し、田舎の民家が並ぶ片側一車線の狭い田舎道を1キロほど走ると信号にさしかかった。そこで左折すると緩やかな上り坂となった。家はまばらで、田んぼのほうが多い。百メートル弱進むと、前方に、石の塀に囲まれた二階建ての木造住宅が左手に立っているのに気がついた。じゅうぶん立派な家ではあるが、田舎だからさほど大きいとは思えない。
徐行すると「田中直紀 真紀子」という表札が目に飛び込んできた。やはりこの家らしい。途中、何度か休んだので4時間15分かかっていた。
確かに右折した6キロ地点、そこに西山出口を降りてからの2回。合計でちょうど3回となった。
新潟県の邸宅
タクシーの運転手の言ったことは嘘ではなく、本当に3回で着いてしまったのだ。
この様子は「月曜から夜ふかし」という番組でも紹介され話題に
VTR冒頭、「うそに決まってんだろ」と呆れたようすでツッコミを入れていたマツコだが、都市伝説が事実だったことが判明すると、「マジで!?」と大声をあげ、「ちょっと、角栄さんのはビックリした…」と漏らしてた。
みんなのツイートまとめ
放送終了後、驚きの声が続々とツイートされた。