葛飾北斎には息子が二人娘が三人居て、お栄は三女でした。
生没年は不詳ですが、1800年ごろとされています。
画号の応為は、父の北斎が娘の事をいつも「おーい」と
呼んでいたからだといわれています。
応為は堤等琳の門人・南沢等明の元に嫁ぎますが、
父親譲りの画才と毒舌の両方を受け継ぎ、夫の絵の
拙いところを指摘して笑ったため離縁されたといわれて
います。
実家に戻ってからは父親の世話をしながら一緒に暮らし、
北斎の絵の制作助手を務めたとされています。
※「夜桜図」
ぎりぎりまで歪められた姿勢、手首の角度に、演奏の躍動が伝わる
※「三曲合奏図 」
「余の美人画は、お栄に及ばざるなり
お栄は巧妙に描きて、よく画法にかなえり」
(美人画にかけては自分は応為には敵わない。
彼女は妙々と描き、よく画法に適っている)
天才浮世絵師である父・北斎にここまで言わせるほどの
才能が、応為にはありました。時には父親の肉筆画の
代筆や彩色をしたとされています。また、応為自身にも
弟子がおり、裕福な商家や武家の娘の家を訪問して
家庭教師のような形で絵を教えていました。
※「月下砧打ち美人図」
※「吉原格子先之図」
暗闇の中に浮かび上がる格子窓。
当時の吉原の様子や、その息遣いまでもが
伝わってきそうです。
応為は男のような任侠気質の性格をしていて、
やや慎みに欠けると評されていました。しかし、
貧しさを苦にすることもなく、占いに凝ったり
豆で人形を作って小金を稼いだりと、絵以外の
ことにも活発に挑戦しました。
北斎の弟子の露木為一によると、応為は北斎と
似た風貌をしており、酒と煙草を嗜む女性でした。
ある日、父親の絵の上に煙草の灰を落としてしまって
酷く反省し禁煙をしましたが、すぐに戻ってしまった
というエピソードがあります。
※「唐獅子図」
北斎の作とされている絵の中にも、実は応為の作品で
あったり、親子の共作があると伝えられています。
※「関羽割臂図」
露木が「先生に入門して長く画を書いているが、
まだうまく描けない」と嘆いていると、応為が笑って
「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで
毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、
猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。
何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」
と言い、そばで聞いていた北斎も「まったくその通り、
まったくその通り」と賛同したという。
※「北斎翁像」
応為の晩年には諸説あり、北斎が90歳で大往生を遂げた後、
67歳の時に家を出て消息不明になっとという説と、
仏門に入って加賀前田家の加護を受けて、金沢で
没したともいわれています。
※「空満屋連和漢武勇合三番之内 大井子と樊噲」
北斎が描いたとされる応為の姿
「百日紅」杉浦日向子
応為を描いた伝記漫画です。画壇で女性が成功する
のが難しかった時代、父親の名声に奢ることもなく
自分の意思を貫き通した応為の日常が、独特のタッチで
淡々と展開していきます。
「百日紅」は2015年に、Production I.Gによってアニメ映画化されました。