知られざる大奥の実態まとめ!女の妬み恨みは日常茶飯事?30歳で夜の営み卒業?

メディア作品の題材になることが多くなってきた「大奥」。しかし、そこが一体どんな世界だったのか、きちんと知っている方は少ないのではないでしょうか。そこで、この記事で知られざる大奥の実態についてまとめました。女の世界だけあって、妬み恨みは日常茶飯事だったみたいですね。あと、将軍との夜の営みは30歳で終わらないといけないルールがあったりとか。

大奥とは?

度々ドラマなどでも取り上げられる”大奥”

怖~い女の園というイメージがある方も多いのではないでしょうか?

大奥の本来の目的は「将軍の世継ぎを産み、育てるところ」です。

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ふんふん、へーそうなんだ!

江戸城内にあった徳川将軍家の私的な生活の場で、将軍の子どもや正室、側室らが暮らしていた。3代将軍家光の乳母・春日局の時代に組織的に整備され、多いときには約3000人がいたとも言われる。

3000人?!すごーい!もはや小さな町レベル。

江戸城における大奥は、本丸御殿のほぼ半分、敷地面積で6000坪もあったと言います。これは、大きさで表すと東京ドーム二つ分に相当する広さです。

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でかすぎ~!

なぜ大奥はできたの?

徳川家光の男好きを苦慮して大奥が誕生した

え?男好き…?

三代将軍の家光は男色家(男好き)で、心配した家光の乳母である春日局が江戸中の美女をスカウトし、女性だけの空間を作った。これが大奥の始まり

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心配だったんですね~

20歳となった家光は、公家の鷹司孝子を正室に迎えるのですが、

孝子は年上で気位も高く、それほど美人ではなかったようで(少なくとも家光の好みではない)家光とは上手くいかず、輿入れ後、まもなく孝子は大奥から中奥へと別居してしまうのです。

これを機に、ますます「男への関心は強まり」、

家光は小姓漁り三昧の日々を送ります。

しかし、これに気付いた春日局は竹千代の好みを逆手に取り、一計を案じました。

それは自分の養女であったお振を小姓に姿に変身させて、竹千代の褥にさせたのです。

この策は見事に当たり、竹千代はお振にぞっこんとなり、やがてお振は懐妊して、最初の子、千代姫を出産したのです。ここに家光の「女性恐怖症」は解消されました。

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家光の男好きを治すために、周りの人が色々苦労、工夫されたみたいですね。

30歳を過ぎると将軍との【夜の営み】を卒業しなければいけなかった?

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30歳って早くない?!

現代ではまだまだ30歳って若いイメージですが…

なんと、正室や側室の女性が上様とセックスできるのは30歳未満のときだけなんです…!!

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☆御台所様(本妻)は30歳で「おしとね御免」
「おしとね」とは公方さまと床を一緒にすることですが、30歳になると、公方さまと一緒に寝ることは許されませんでした。これには、当時の御台所様の多くが公家出身で健康状態もあまり良くなくひよわでした。もし、妊娠でもされると、今で言う「高齢出産」ということで、身体への影響を考えて避妊の意味も含まれていました。

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当時は出産が命がけだったという事を考えると確かに30過ぎてからの妊娠・出産は母にも子にもリスクが大きかったのかもしれませんね。

本妻が30歳を超えても妊娠できなければ、自分の女中を将軍に差し出したらしい

自分の権勢を守るためには自分のお付きの女を差し出す必要があった

まじか…でも、なぜそんなことするの?

御台様が30歳になると自ら「お添い寝役」として、自分の子飼いの女中を公方さまに差し出しました。若い娘で10歳という記録もあるようです。自分の子飼いの女中を差し出すのは、自分の権勢を保つためでしたが、年に一度の「お花見の会」などで、公方さまが「あの者の名は?」と側近に洩らすと、イコール「お添い寝役」決定でした。こぞって、器量良しに豪華な着物を着せて公方さまのお近くをそぞろ歩かせました。とにかく、お目にとまるよう必死だったのです。大奥の派閥争いは熾烈だったのです。

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女の争い…怖いですね~!

将軍との夜の営みは常に監視の下で行われた

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なぜ将軍の寝室に監視役が必要だったのか?

やりにくいですよねぇ。

putihaha6
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@putihaha6

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