代表選手は苦労人が多い?非エリートの選手まとめ

サッカー選手といえば高級車を乗り回す上流階級、というイメージは根強いが、男子日本代表に選出されるプレイヤーは意外にも苦労人が多い。生まれながらのエリートではなく、血のにじむような努力で代表の座を勝ち取ってきたのだ。ここではそういった非エリートの選手をまとめた。

本田圭佑

本田圭佑

CSKAモスクワ所属。南アフリカW杯では中村俊輔の不調も有りポジションを奪取。以降、日本の絶対的エースとして君臨。

大阪府摂津市出身。両親は、本田が小学2年の春に離婚。幼少時は鳥飼さつき園に通っていた。摂津市立鳥飼北小学校2年時から地元の摂津FCに入団しサッカーを始める。摂津市立第四中学校に入学。中学時代のあだ名はゴリ(赤いタンクトップにジーパンで腕相撲が強く体がでかかったため)。その後、ガンバ大阪ジュニアユースに所属し家長昭博、安田理大、東口順昭らと共にプレーしたが、ユースチームへの昇格の内定が出なかったため、石川県の星稜高校へと進学した。

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本人もインタビューでたびたび「ガンバ大阪ジュニアユースに昇格出来なかった事が原点」という趣旨の発言をしていますね。

香川真司

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香川真司

2011-2012シーズンは名実ともにドルトムントのエースとしてチームを二年連続優勝に導いた原動力。2012-2013シーズンよりマンチェスターUへ加入した。

ヴィッセル神戸のジュニアユースのセレクションを受けて不合格となったため、FCみやぎバルセロナ(宮城県仙台市)の初代監督と縁があった神戸NKの監督の勧めで中学から仙台にサッカー留学することになった。

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若い時期からセレッソで活躍してたので、エリート街道まっしぐらなのかと思ってましたがヴィッセルのセレクションに落ちてたんですね。香川選手の場合は南アフリカW杯の落選も挫折のひとつでしょうね。

長友佑都

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長友佑都

2010年イタリア・セリエAのチェゼーナへ移籍。シーズン途中で名門インテルに移籍し献身的な動きでレギュラーを獲得。チームメイトの信頼が厚い事でも知られる。

小学校1年生時にサッカーを始め、6年次に愛媛FCジュニアユースのセレクションを受けるも落選。西条市立北中学校時代に恩師である井上博に出会い、この時期の走り込みにより現在の豊富な運動量のベースが作られた。サッカーの強豪東福岡高校では、森重潤也のもと2年生時に1ボランチとしてレギュラー入りしたが、地区選抜などには選ばれず全国的には無名だったためスポーツ推薦を得られず、進学先の明治大学政治経済学部には指定校推薦で入学した。

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2005年、明治大学サッカー部入部直後に椎間板ヘルニアを発症し、試合に出場できずスタンドで応援する日々が続いた。この時期、サッカーができないストレスでパチンコなど遊興に溺れた日々もあったが、実姉や大学の同窓生の叱咤激励もあってこれを乗り越えることができたと語っている。大学2年次の2006年にサイドハーフから右サイドバックにコンバートされた。明治大学所属時の神川明彦監督は長友を右サイドバックにコンバートさせた理由について、フィジカルの強さ、走力、攻撃の完結力を生かすためであると語っている

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今やインテルの不動の左サイドバックも数年前は大学でスタメンに入れずスタンドで太鼓をならして応援してたんですよね。

中村俊輔

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中村俊輔

横浜マリノス→レッジーナ→セルティック→エスパニョール→横浜F・マリノス。長きにわたり日本代表の10番としてチームを牽引。セルティック時代に敵地オールド・トラフォードでマンチェスターU相手にFKで決めたゴールは今も語り草。

1985年、深園FCに入団し、サッカーを始める。1991~1994年には横浜F・マリノスのジュニアユースに所属し、2度の全国制覇を経験したが、ユースへの昇格が出来ず、1994年に桐光学園高等学校へ進学しサッカー部に所属、高校2年生次にて全国高校サッカー選手権に出場し、高校3年生次には同選手権で準優勝を果たした。

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2002年W杯でトルシエに外された時は衝撃的でしたね。その後、海外に活躍の場を移した俊輔ですが「おまえはなぜW杯に出なかったんだ?」とチームメートに聞かれたときは素直に「実力不足だからだよ」と返答していたそうです。ベテランの域に達してきましたが、いつまでも頑張ってプレーして欲しいですね。

中澤佑二

中澤佑二

2006年・2010年W杯では不動のセンターバックを努めた。特徴的な髪型はヴェルディ練習生時代に少しでもチームの上層部の目に留まる様に自分なりに考えた工夫である。

幼少期~ブラジル留学時代
サッカーを始めたのは小学校6年生とプロ選手の中では遅めだった。埼玉県立三郷工業技術高等学校はサッカーの名門校ではなかったために、卒業後Jリーグに売り込む価値を上げるべくブラジルへサッカー留学を計画する。ブラジルのサッカークラブ・FCアメリカに加入し、次第に練習試合などにも起用されるようになった。チームメイトにはジウベウト・シウバなどがいた。一年後にビザ更新の為日本に帰国したところクラブから必要書類が届かずブラジルでのプレーを断念した。

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練習生時代
Jリーグの各クラブへ売り込みをかけたがどのクラブからも誘いは来ず、母校のサッカー部で在校生に混じって練習を続ける。1998年にヴェルディ川崎のユースチームとの練習試合で得点を挙げ、これをきっかけに練習生契約での入団が決まる。練習生契約では給料は支払われず、必要費用をクラブに支払って練習に参加する。認められればプロと一緒に練習が出来るが、クラブからは交通費など金銭補助は無く自腹での練習参加の身となり、地元の埼玉県吉川市からヴェルディの練習場がある東京都稲城市まで(交通費は往復で約1800円)片道2時間かけて練習に参加していた。この時の待遇と思い出は本人にとっても屈辱だったようで、プロの練習を横目に単調な反復の基礎体力練習に明け暮れ、練習に付き合ってくれたトレーナーと共に嘆息していた。

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Jリーグでの活躍
1999年からプロ契約がきまった。同年のシーズンでレギュラーポジションを獲得し、Jリーグ新人王に輝き、シドニー五輪をめざすトルシエのチームに招集され本大会にも出場。

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ヴェルディ練習生時代に当時スーパースターだったカズに臆する事なくハードタックルを仕掛けてカズが憤慨した事件は有名ですよね。しかし、当時の中澤の事を思えば必死だったんですよね。中澤選手のようなガッツ溢れる選手が今後も日本には大事ですよね。

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