20世紀前半のパリで花開いた異色の才能。画家・藤田嗣治の作品と波乱の生涯。

2015年11月、オダギリ・ジョー主演の映画「FOUJITA」の公開が予定されています。この映画で描かれている「FOUJITA」は、本名藤田嗣治(つぐはる)、後にレオナール・フジタと改名する日本人画家のことです。その独特の風貌と、独自の画風でパリに一大センセーションを巻き起こしたFOUJITAの作品と生涯を追いました。

あなたは「フジタツグハル」という画家を知っていますか?

この画像は、2015年秋に上映予定の「FOUJITA」からの1シーンです。
オダギリ・ジョーが扮する「おかっぱ頭」のこの男性、これが藤田嗣治。
1913年に単身パリへ渡り、1920年代に入ってから彼の描く裸婦像が大絶賛を受けると、一躍パリ画壇の寵児になった人物です。

藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 – 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。

出典: ja.wikipedia.org

「エコール・ド・パリ」とは、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちの総称です。
アンリ・ルソー、モーリス・ユトリロ、モディリアーニ、マリー・ローランサン、マルク・シャガールなど錚々たる顔ぶれで、藤田はその中でも代表的なひとりでした。

その独特の風貌(おかっぱ頭)と、画家仲間から「フーフー(お調子者)」と呼ばれた数々の奇行で、エキセントリックな部分ばかりが強調されがちな藤田ですが、実は人には見えない所で、新しい絵画技法を生み出すための懸命な努力を重ねていたことが分かっています。

他の画家には真似の出来ない「乳白色の肌」の表現

フジタ独自の透き通るような乳白色の肌表現が光るこの絵は、1922年に描かれた「寝室の裸婦キキ」。
モデルは、マン・レイの愛人であり「モンパルナスの女王」とも呼ばれたキキで、この作品はマネ作の裸婦画「オランピア」に似た構図で描かれています。
そこには西洋の名作に対する東洋人としてのチャレンジ精神が込められているようにも思えます。

同じく、その美しい肌の色合いが見るものの目を引き付ける1923年の「裸婦」。

日本画の手法も用いられていると思われる画風で、優美な作品です。
当時のパリ画壇では驚くべき手法だったと思われます。

1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。

出典: ja.wikipedia.org

私生活では4度の離婚 5度目の結婚でようやく生涯の伴侶を得る

フジタは、パリに渡る少し前に日本人女性と最初の結婚をしています。
しかしそれはわずか1年あまりで破綻し、1917年にフランス人モデルだったフェルナンドと2度目の結婚。
そして3度目に結婚したフランス人女性リュシーは、やがてフジタ公認の愛人を持つようになります。
その結婚が破綻した後、個展開催のためアメリカへ渡ったフジタに付き添っていたのは新しい愛人のマドレーヌでした。
やがて1935年、日本に帰国後フジタは日本人女性君代と出会い彼女と5度目の結婚をします。
この結婚がフジタにとって最後の結婚となり、君代はフジタが81歳で世を去るまで彼に連れ添いました。

従軍画家としての仕事

1938年からフジタは従軍画家として中国へ渡ります。その後一度パリに戻りますが、ほどなくして第二次世界大戦が勃発。
日本に戻ったフジタは陸軍美術協会理事長に就任し、「戦争画」を描きました。

この作品は1940年の作品「猫(争闘)」
これまでの彼の画風とは全く異なる、ダイナミズムと躍動感。猫の姿を借りながら、その中に迫り来る戦争に対する不安や様々な感情が表現されています。

そしてこれが戦争画の傑作「アッツ島玉砕」(1943年)です。

この絵を描いたことで、戦後「戦争を賛美した」「戦争を鼓舞した」と批判されることになるのですが、実際のところ、この絵からそのような「戦争賛美」のイメージは全く伝わってきません。

この絵の前で大勢の人達が涙を流し、手をあわせ、祈りを捧げたと言われています。

闘いで死んでいった名もない多くの若者達の姿を、ただひたすら丹念に描いたこの作品を、フジタ自身も「最も改心の作」と評したそうです。

戦後パリへ戻ってから〜亡くなるまで

敗戦後の1949年に戦争協力に対する批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。

傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だった。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。
1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(フランス語版)に葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。

出典: ja.wikipedia.org

最後に

個人的にとても好きな作品があります。
この「カフェにて」という絵です。
黒いドレスが映える白い肌の女性がほおづえをついているカフェの風景。
色合いがとてもヨーロッパ的で、ずっと見ていたくなります。

波瀾万丈の人生を歩んだ藤田嗣治ですが、映画公開ともあわせてこれから更に評価が進んでいくのではないかと期待しています。

matsurika
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